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山口市(2)

 
山口城(山口藩庁門)
 山口市南部は、古代に発展した山陽路の交通の要衝にあたるであった。
 周防・長門・石見の守護となった24代・大内弘世は、1360(正平15)年頃、本拠を京都に似た盆地をもつ山口に移しました。京都から八坂神社などを勧請し、祇園祭を取り入れるなど「西の京」を建設しました。
 29代・大内政弘の時、勘合貿易を堺の商人と競合し、その富で、応仁の乱(1467年)により荒廃した京都から雪舟などの芸術家を招きました。
 31代・大内義隆の時、勘合貿易などにより最も栄えました。この時、サビエルもやって来ました。
 江戸時代に入り、大内氏の所領を継いだ毛利氏は萩に指月城を建設しました。
 1615(元和元)年、一国一城令が出され、山口の高嶺城は破壊され、萩が発展しました。
 1862(文久2)年5月、高杉晋作は、13代・毛利敬親の命令で、幕府の使節に随行して上海を視察しました。
 7月、13代・毛利敬親は、攘夷の実行を決意しました。
 1863(文久3)年4月、毛利敬親は、攘夷実行に備えて萩から山口城に藩庁を移しました。
 5月、勅命により下関を通過する外国船を砲撃しました(外国船砲撃事件)。この時、高杉晋作は、馬関総奉行に抜擢されて、下関の防衛にあたりました。
 8月7日、アメリカ・イギリス・オランダ・フランスの4カ国の連合艦隊と戦い、敗れる(下関戦争)。この時、高杉晋作は、旧来の武士の戦意をなさを見て、外国軍に対抗できる気力に満ちた軍隊の創設を決意しました。これが奇兵隊です。 
 8月18日、長州派の公卿が京都を追われました(8月18日の政変)。
 1864(元治元)年7月8日、長州藩士多数が新選組によって殺害される(池田屋事件)。
 7月19日、長州藩は、御所を守る幕府・h摩藩と交戦し、敗北しました(禁門の変)。
 7月21日、朝廷は、幕府に長州征討を命じました(第一次長州征討)。
 8月、高杉晋作は、下関戦争の休戦条約の正使に任命され、講和条約を締結に成功しました。
 9月、第一次長征中、俗論派(幕府支持派のこと)が勢力を強め、正義派(尊攘派のこと)の周布政之助が自害しました。
 11月、高杉晋作は、俗論派から逃れるため、野村望東尼の平尾山荘に潜伏しました。
 11月3日、西郷隆盛は、3家老の切腹・山口城の破却あを条件に、長州藩の降伏を認めました。その結果、長州藩は、幕府に恭順の意を示し、毛利敬親・元徳父子は
 11月12日、幕府の力を背に俗論派は、幕府に恭順の意を示し、正義派(尊攘派のこと)の3家老を処刑しました。藩主の毛利敬親・元徳父子は、謹慎の意を表して萩に退きました。
 11月25日、高杉晋作は、死を覚悟して、馬関に帰り、不利な状況を挽回できませんでした。
 12月15日、忠臣蔵の討ち入りにあやかって、1日に遅れのこの日に、高杉晋作は挙兵しました。雪の功山寺を訪れた高杉晋作は、三条実美ら五卿に挨拶を行い、「今から長州男子の肝っ玉をお目にかけます」と語りました(功山寺挙兵)。
 1865(慶応元)年1月、毛利敬親は再び、山口城に戻りました。
 3月、高杉晋作は、藩権力を掌握し、藩論を恭順から討幕へと転回しました。
 4月、幕府は、長州の反幕政策に対して、態度を硬化させます。
 5月、西郷隆盛は、第二次長州征伐を予想して、坂本竜馬に長州との和解を依頼しました。 
 9月、幕府は、第二次長州征伐を発表しました。
 1866(慶応2)年1月、薩長同盟が成立しました。
 6月、長州軍は、連戦連勝し、田の浦・門司を占領しました。
 7月、将軍徳川家茂が急死し、徳川慶喜が15代将軍になりました。
 9月、幕府は、前将軍徳川家茂の急死理由に、第二次長州征伐を中止しました。
 1867(慶応3)年4月14日午前2時、高杉晋作は、下関で亡くなりました。時に29歳でした。
山口市滝町

 1867(慶応3)年9月、第二次長州征伐を前に、土佐の坂本竜馬の活躍で、枕流亭2階でh長同盟が成立しました。
 薩摩側の出席者は、西郷吉之助、大久保利通、小松帯刀、大山格之助らです。
 長州藩側の出席者は、木戸孝允、広沢真臣、伊藤博文、品川弥二郎らです。
枕流亭
山口県山口市香山町(香山公園内)

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