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孫に伝える小説忠臣蔵

第一章
【002回】浅野家のルーツを探る(2)━関ヶ原の戦い前後の浅野家

中学生になった孫娘と友だち2人
制服でやってくる
 新学期早々の日曜日です。やや寒さが残るものの、サクラは満開です。
 長い冬に耐えたサクラの色は、輝きを増しています。
 そんな中、中学校の新しい制服に身を包んで、孫娘と友だち2人がやって来ました。
 小学生の時は、色とりどりの私服でしたが、制服を着た彼女たちは、大人びて見えました。
 私は、話のきっかけをつくるために、「何部にはいりましたか」と問うと、
 大野蛍子さんは「小学校からしていた剣道部に入りました」
 木村葉月さんは「小学校からしていたバスケット部に入りました。それに家では茶道を習っています」
 孫の湖南あこなは「小学校からピアノをやっていたので吹奏楽に。それと葉月さんと同じように家では華道をしてます」

1585(天正13)年     豊臣秀吉は子飼いの大名5人を五奉行に任命
1590(天正18)年 6月 9日 秀吉は全国統一を達成
1595(文禄04)年 8月 2日 関白豊臣秀次謀反事件に連座して、浅野長政失脚
1598(慶長03)年 8月 18日 秀吉が亡くなりました(63歳)
1599(慶長04)年 9月 9日 徳川家康暗殺計画が露見し、長政も連座の疑い
  10月   家康により長政は甲斐に蟄居。長政は家督を幸長へ
1600(慶長05)年 1月   人質の浅野長重は徳川秀忠の小姓となる
  7月 24日 家康「三成挙兵の確報」を得る
  8月   家康は浅野長政に2通・幸長に5通の手紙作戦
    24日 幸長ら岐阜城攻略。三成の大垣〜岐阜城防御線崩壊
  9月 13日 小早川秀秋は佐和山城より進軍して高宮に布陣する
    14日 家康は偽情報(一気に大坂城を攻める)を三成に流す
      三成は大垣城を出て関ヶ原へ退陣する
      秀秋は高宮より突如松尾山に進軍する
年表(1)
関ヶ原の戦いの背景は?
浅野長政派(戦争屋)と石田三成派(事務屋)の対立
石田三成
 私(土井瑠)「早速、関ヶ原の戦いの話にうつろうか」
 剣道やバスケ、それに茶・華道をしている3人は、姿勢がとても奇麗だ。
 3人は、声を揃えて、大きな声で「お願いします」

 私「戦争には、必ず原因があるんだよ。関ヶ原の戦いの原因を考えようか」
 私は、準備しておいた、年表(1)を3人に渡して、説明を始めました。
 私「豊臣秀吉が五奉行を任命したことは知ってるかな?」
 歴史の好きな葉月さんは「知っています」
 私「じゃ、誰を任命したかは?」
 「・・・・」
 私「秀吉は、義兄の浅野長政を五奉行の筆頭として、武力にたよる司法を担当させたんだ」
 さらに私「計算がたくみな石田三成には行政を担当させたんだよ」

 私「次に質問をします。全国が統一され、秀吉が亡くなると、五奉行ではだれが、指導者になると思いますか?」
 しばらくして、本が好きなあこなが「うーん、全国が統一されたんだから、武力が必要なくなる。すると計算が上手な石田三成が出世をすると思いますが・・」
 他の2人も「同じです」

 私「よく分かったね。その通りなんだ。全国を統一するまでは、浅野長政なんかは命懸けで戦っている。その後、石田三成がやってきて、その土地からどれくらい税金がとれるか、計算をするんだ」
 蛍子さんは「戦争中は、浅野長政のような人が活躍し、戦争後は石田三成のような人が活躍するということですか」

 私「そういうことだね。苦労した浅野長政らは、戦争後にのこのこやってきて秀吉に褒められる石田三成らに不満を持っていたことは分かるね。しかし、秀吉がいる間は、表立って文句が言えなかった。でも、秀吉が亡くなると、その不満を抑える人がいないんだ」

徳川家康
関ヶ原の戦いの背景は?
浅野長政派(戦争屋)と石田三成派(事務屋)の対立
それを利用したのが徳川家康
お 市
||━ 淀 君 毛利元就━ 小早川隆景 ━━━━ 小早川 秀秋
浅井長政 || 豊臣秀頼
|| 三好吉房
|| ||━ 秀  次
|| 日 秀
||
豊臣秀吉 ━━━ 秀  次
|| ━━━ 羽  柴  秀  俊
||
杉原定利 || 木下家定 木 下 秀 俊
|| 前田利家 利常 満 姫
浅野長勝 ねね 徳川家康 振姫 ||
やや ||━ 光晟
||━ 幸長 長晟
浅野長政
長   晟
系図(3)
 歴史が好きな葉月さんが「この年表(1)を見ると、『関白豊臣秀次謀反事件に連座して、浅野長政失脚』とありますが、どういうことなんですか」 
 私「この事件と『徳川家康暗殺計画』は、関ヶ原の戦いの背景を知る上で、とても大切なことなんだよ。少し長くなるが・・」
 3人は「是非聞かせて下さい」
 
 三好秀次は、秀吉の姉・日秀の子どもですが、秀吉の嫡男・鶴丸が亡くなると、秀吉の養子・豊臣秀次となり、関白識を譲られました。やがて、秀吉には淀君との間に、秀頼が生まれると、石田三成らの密告により、切腹させられ、京都の三条河原にさら(晒)されました。
 この事件に関係しているとして、浅野長政も能登(今の石川県)津向(つむぎ)に流されました。長政は妻の妹で、秀吉の正妻・北政所などの働きで、ゆるされました。これにより石田三成との関係は徹底的に悪くなりました。
 逆に、秀吉は、石田三成を高く評価するようになりました。 

関ヶ原の戦いの背景は?
五奉行の筆頭・浅野長政 五奉行で唯一東軍(家康派)へ
 次に、徳川家康暗殺計画です。浅野長政らは、大坂城に登城する家康を暗殺しようという計画です。これを密告したのが石田三成らだというのです。この計画を知った家康は、浅野長政を甲斐(今の山梨県)に押し込めました。このような事件を押し込めという軽い処分にしたことは、三成の密告を利用した家康の謀略だという説があります。実際、家康は、この事件により、五奉行の筆頭・浅野長政を関東に封じ込めることに成功したのです。

関ヶ原の戦い布陣図(出典:山川出版社『詳説日本史図録』)
関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦いの布陣図では西軍(石田三成派)が勝利
 私「この布陣図を見て、西軍(石田三成派)と東軍(徳川家康派)とどちらが有利か分かるかな」
 歴史の好きな葉月さんは「西軍ですか」
 私「その理由は?」
 葉月さん「赤の東軍は、青の西軍に囲まれているから」
 蛍子さんやあこなも「私もそう思う」
 私「なるほど、よく考えたね」

 3人は「本当はどうなんですか?」
 私「軍事専門家も、この布陣図をみて、葉月さんが言ったのと同じ理由で、西軍が有利だと指摘しているんだ」
 蛍子さん「しかし、実際に、東軍が勝ったんですね。どうしてですか?」
 私「軍事専門家の指摘によると、松尾山の小早川秀秋が裏切ることが条件だと」
 あこな「本当はどうなんですか?」
 友だちの2人が丁寧な表現をするので、今までゾンザイな発言をしていた孫のあこなも少しづつ丁寧な物言いになってきました。
関ヶ原の戦い
東軍(徳川家康派)の勝利の原因?
小早川秀秋の寝返り
 私「実際に、小早川秀秋が西軍を裏切って、山下の大谷吉継軍を攻撃するんだ。さらに山下の脇坂安治軍らが吉継軍の背後から挟み撃ちにして、攻撃しているんだよ」
 歴史のすきな葉月さんは「確か、小早川秀秋は豊臣秀吉と関係があるんですね」
 私「そうだね。系図(3)を見ると、小早川秀秋の最初の木下秀俊となっているね。お父さんは、秀吉の妻・ねねの兄にあたるんだ。それで、秀吉の養子になって、羽柴秀俊と名前を変えている。その後、秀吉は、毛利氏と関係を深めるため、元就の子の小早川隆景の養子にしているんだ。それで、名前が小早川秀秋になるんだよ」
 あこな「こういう養子を政略というんですね」
 私「そうそう。政略的に結婚制度や養子制度を利用して、人間関係を強めていることがよく分かるね」

 葉月さん「そんな秀秋が、どうして豊臣家を裏切ったのですか」
 私「春日局を知っているね。春日局の夫が稲葉正成なんだ。この正成は先見の明がある人物で、主君の秀秋に裏切り説得しているよ」

浅野幸長
関ヶ原の戦い以後
東軍(徳川家康派)の勝利の原因?
浅野幸長の役割は毛利一族の動きを封ずること
 大野安兵衛の子孫である蛍子さんは、早く赤穂浅野家に話が進みたいのでしょう
 「浅野長政はどうなったのですか」
 私「布陣図を見ると、赤の実線で囲んでいるところが、浅野幸長の陣地なんだ。前にも言ったように、長政は徳川家康暗殺計画に連座したとして、隠居して、息子の幸長に家督を譲っているんだよ」
 蛍子さん「幸長の場所は、どんな意味があるんですか」
 私「布陣図をみると、幸長の手前の南宮山に吉川広家や毛利秀元がいるね。広家と秀元のお爺さんは共に毛利元就なんだ。つまり、毛利輝元は西軍の総大将で、その動きを封ずる大切な役割を毛利輝元と付き合ったことがある浅野幸長を当てたんだよ」
 あこな「家康は頭がいいって言うことですか」
 私「そうだね。タヌキ親父とか何とか言われていますが、非常に賢いのは事実だね」

 葉月さん「結局、小早川秀秋の裏切りと毛利勢を封じた浅野幸長の活躍で、東軍が勝利したんですね」 

1600(慶長05)年     戦後、浅野長政の子・幸長は和歌山37万6000石相続
1601(慶長06)年     徳川家康は浅野長重に下野真岡藩2万石を与える
1602(慶長07)年     浅野長重の子・長重は松平家清の娘(家康の養女)と結婚
1606(慶長11)年     長政は幸長とは別に、隠居料・真壁5万石を与えらる
1611(慶長16)年     父の浅野長政が亡くなると、長重は常陸真壁5万石を相続
1613(慶長18)年 8月 25日 幸長が亡くなると、弟の浅野長晟が和歌山を相続
1632(寛永09)年     父・長重が亡くなると、長男・長直が家督を相続する
年表(2)
関ヶ原の戦い以後
赤穂浅野家の先祖浅野長直がやっと登場
 あこな「勝利に貢献した浅野家はどうなったんですか」
 私「年表(2)を見ると、浅野長政の子・幸長は和歌山に38万石を得ていることが分かるね。さらに、浅野長政は、隠居料として真壁(今の茨城県)に5万石を与えられているんだよ。長政が亡くなると、長政の三男坊の長重が父の遺産を相続しているんだ」
 蛍子さん「あ、知っている。長重が赤穂浅野家初代の長直のお父さんですね」
 私「よく知っているね」
 蛍子さん「父に教えてもらいました」
 蛍子さんも蛍子さんのお父さんも、先祖の大野九郎兵衛の事を調べるうちに、忠臣蔵の基本的な知識を得ていました。

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