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孫に伝える小説忠臣蔵

第一章
【003回】浅野家のルーツを探る(3)━大坂の役前後の浅野家

お 市
||━ 淀 君
浅井長政 || 豊 臣 秀 頼
豊臣秀吉
|| 前田利家 利常 満 姫
浅野長勝 ねね 徳川家康 振姫 ||
やや ||━ 光晟
|| 幸 長 長晟
浅野長政
長    晟
長 重
系図(4)

大坂冬の陣の展開
1600年    関ヶ原の戦いによる改易91大名440万石(浪人が11万人発生)
1603年 2月 徳川家康(62歳)は征夷大将軍に就任しました
1605年 4月 家康(64歳)は将軍職を秀忠(20歳)に譲り、将軍職の世襲を宣言
1614年 1月 家康は(73歳)は、秀忠(29歳)のために、大掃除を決意しました
   5月 方広寺鐘銘事件が起こりました
  11月 家康は冬の陣の包囲網を完成させ、浅野長重は東北の守りを固めました
    浅野長晟は物資の搬入ルートの砦(木津川と尻無川の合流地域)を攻略
  12月 大坂方は外堀を埋めることを認め、講和が成立しました
年表(3)

大坂冬の陣の背景は?
関ヶ原の戦いにより発生した11万人の浪人
その中心に豊臣秀頼がなることを徳川家康は恐れる
方広寺鐘銘事件を利用
 孫娘の湖南あこなら3人は、中学生らしい雰囲気をもって、やって来ました。
 いつもながら、水性のボールペンとメモ帳を持ってきて、一生懸命、私の話を記録していました。3人が3人とも、絵を描いたり、線を引いたり、工夫して、楽しいノートになっていました。見たい衝動を抑えることが大切です。彼女たちは繊細な思春期を送っているのです。
 私(湖南土井瑠)は「今日は、関ヶ原の戦い以後の話だったね」
 3人は「そうです。大坂の役の話です」
 私「どこから話そうかね?」

 歴史の好きな木村葉月さん「何が原因で、大坂の役が始まったんですか?」
 私「大坂の役には、11月に始まった冬の陣と、4月に始まる夏の陣があるんだ」
 本が好きな湖南あこな「へー。そうなんだ。それでは、冬の陣の原因はなんですか?」
 私「年表(3)を見ると分かるように、徳川家康が将軍になった時、すでに62歳になっていたんだ。僅か2年後の64歳の時、家康は20歳の秀忠に将軍識を譲っている。これは、徳川家が豊臣家に代わって、将軍職を世襲するということを世間に知らせる意図があったんだ」
 さらに私は「関ヶ原の戦いにより、91の大名が取り潰しにあい、全国で11万人もの浪人が発生しているよ。この不満グループの中心に豊臣秀吉の子・秀頼がなることを、家康は恐れたんだよ。73歳になった家康は、周囲の人に『大掃除をする』と語っているんだ」

 大野蛍子さん「『大掃除』って何ですか」
 私「豊臣秀頼など豊臣家を滅亡させることだよ」
 あこな「どのような方法をとったんですか」
 私「家康の意図を知った家臣の中で、京都所司代の板倉勝重は重要は情報を家康にもたらしたんだ」
 あこな「どんな情報ですか?」
 私「方広寺は秀吉が建てたんだが、釣鐘は1614年に鋳造されたんだよ。その釣鐘の中の文字に『国』『君臣豊楽』があるというんだ」
 葉月さん「どこが問題なんですか」
 私「『国家安康』には家康という字が国家によって分断しており、『君臣豊楽』には、その結果豊臣の君(秀頼)が楽しむという呪いが込められるという解釈なんだ」
 あこな「勝手な解釈ですね」
 私「そうそう、そうなんだ。しかし、家康にはどうでもいいことで、何かのきっかけを利用して、豊臣家を滅ぼそうと考えていたんだ」
 葉月さん「それが家康をタヌキ・オヤジと言われる理由なんですね」
大坂冬の陣の布陣図(出典:山川出版社『詳説日本史図録』)

大坂冬の陣の展開
母性本能が優先する豊臣方
冷静な戦略を重視した徳川方
 あこな「具体的に戦争はどうなったんですか」
 私「大坂冬の陣の布陣図を見ると、家康の軍は、大坂城を完全に包囲しているよね」
 蛍子さん「赤穂浅野家の先祖にあたる浅野長重さんの名前も見えますね」
 私「さずが、蛍子さんは赤穂浅野家にこだわって覚えようとしているね。それも大切な見方なんだよ」
 あこな「それで戦争は?」
 私「浅野長政の次男・浅野長晟は物資の搬入ルートにあたる重要な拠点(木津川と尻無川の合流地域)を攻略したり、長政の三男坊・浅野長重は大坂城外堀の西側を死守するなど活躍しているよ」

 葉月さん「最後はどうなったんですか」
 私「そうそう、それが肝腎、肝腎。家康は、大坂城を完全に包囲した上、大砲を打ちまくるんだよ」
 葉月さん「その目的は何ですか」
 私「大坂城には秀頼の母の淀君が全てをしきっているんだ。淀君は信長の妹お市の娘で、とても気丈な人だと言われている。秀吉が大切にしていた家臣を次々と遠ざけているんだ」
 あこな「どうして?」
 私「多分、母親として秀頼を守りたかったんだろうね。冷静な戦略より母性本能を優先したんだろう」
 あこな「母性本能と大砲との関係は?」
 私「大砲をドカン、ドカンと打ちこまれると、淀君は自分の可愛い子どもを守りたい一心で、講和を申し出たんだ。そのことを冷静に計算していた家康は、大坂城の外堀を埋めることを条件に出している」

大坂冬の陣の展開
大坂城の外堀を埋めることを条件に講和成立
 葉月さん「それはどういうことなんですか?」
 私「冬の陣の布陣図をみると、秀吉が造った大坂城はどんなに攻めても落ちない構造になっているんだ。最近、大阪府文化財センターが発表した資料によると、三の丸(外堀)の幅は25メートル、深さは6メートル、堀の水の深さは2メートルにもなる」
 蛍子さん「それではとても攻められないですね」
 あこな「大坂城の構造と講和とは、どう関係するんですか」
 私「家康は、『攻めきれないお城があっては、戦いを望んでいるとしか考えられない』という理屈をつけ、『平和を望むなら、外堀を埋めよ』と申し入れたんだ」
 蛍子さん「それを淀君は受け入れたんですね」
 私「秀頼を守りたい一心で、母親として受け入れてしまうんだね」

大坂冬の陣の展開
大坂城の外堀を埋める条件を破り
中堀まで一気に埋め立てる
 葉月さん「タヌキ・オヤジと言われた家康は、その条件を守ったんですか?」
 私「皆んなはどう思う?」
 あこな「この戦争は、豊臣家を滅ぼす『大掃除』が目的だったから、約束は守られなかったと思う」
 蛍子さん「私も、同じ意見です」
 私「皆んなの感覚はするどいね。実は、そうなんだ。家康方の奉行たちは、『知らなかった』として、一気に外堀だけでなく、中堀も埋めてしまうんだ」
 蛍子さん「淀君は抗議しなかったんですか?」
 私「当然抗議をしているね。しかし、家康は『外堀だけと言っておいたんだが、奉行たちが勝手に中堀まで埋めてしまったんだ』ととぼけているよ」
 葉月さん「本当に、タヌキ・オヤジなんですね、家康は」
 私「戦争とは、だまし、だまされるものなんだ。負けたから、相手がだましうちしたと言っても、笑われるだけなんだよ。ともかく、『戦争は勝たなければいけない』ということだね」
 あこな「残酷なんですね」

大坂夏の陣の展開
1615年 2月   京都所司代は徳川家康に大坂方が浪人を大量募集と報告しました
  3月   家康は浪人追放か豊臣秀頼の大和国替の二者択一を迫りました
  3月   大坂方は豊臣秀頼の大和国替を拒否しました
  4月 6日 家康は諸大名に出陣を命令しました
    28日 浅野長晟は5000の兵を率いて、和歌山城を出発しました
       塙団右衛門軍は浅野長晟を叩くため出撃しました
    29日 浅野長晟は、緒戦で、塙団右衛門軍を撃破し、団右衛門を殺害
  5月 6日 小松山の戦いで、大坂方の後藤又兵が自害しました
     7日 浅野長重らは大坂城に突入しました
      真田幸村が家康を追い詰め、長重らがこの窮地を救いしました
      台所頭が徳川方に内応して、城内の台所に放火し、大坂城が落城
      千姫の脱出を条件に、秀頼と淀君の助命を懇願し、千姫は脱出
    8日 淀君は秀頼・大野治長ら20人と自害し、豊臣家が滅亡しました
大野治長は、千姫の脱出を条件に、豊臣秀頼と淀君の命乞いをしました。千姫は、父徳川秀忠のいる岡山口に送り届けられましたが、徳川家康は、豊臣秀頼と淀君の助命は許しませんでした。
年表(4)

大坂夏の陣の背景?
巧妙に仕掛けられた罠(わな)
 蛍子さん「夏の陣はどうして始まったんですか?」
 私「1615年になると、徳川家康は74歳になっている。当時の平均年齢が40歳位だから、死期が近づいていることを感じたのかもしれないね」
 3人は私の目をじーつと見つめて、聞き入っています。「目は口ほどに物をいう」という諺があるように、相手も気持ちが手に取るように分かります。
 続けて、私は「家康は、京都に大坂方の様子を監視する京都所司代を置いていたんだ。京都所司代はどんな人だったと思うかな?」

 本が好きな湖南あこなは人間の心理がよく分かるようだ。
 あこな「家康の気持ちを考えて、家康の喜ぶような事を報告するような人なんでは・・」
 私「その通りだね。その京都所司代から大坂方が浪人を10万人も集めているという報告が届いたんだよね。そこで、家康はどういう作戦を立てたか分かるかな?」
 3人は「分かりません」
 私「家康は『浪人を解散させるか、豊臣秀頼を大和に国替するか、どちらかを選べ』という課題を出すんだ」

 歴史が好きな木村葉月さんは、歴史的な背景に興味を持ってるようだ。
 葉月さん「2つから1つ選べと言いながら、2つとも絶対に出来ない課題を出して、戦争の口実を作っているんですね。本当に家康はタヌキ・オヤジだと思います」
 私「そうなんだね。その両方を拒否すると、家康は諸大名に大坂への出陣を命じているんだ。その中に浅野長晟がいるんだ」

 お父さんから忠臣蔵の話を聞いている大野蛍子さんは、当然のことながら、忠臣蔵関係の話の知識は豊かだ。
 蛍子さん「その長晟さんは、浅野本家の人ですね」
 私「そうそう。関ヶ原の戦いで活躍した浅野幸長さんは和歌山城主となったんだが、亡くなると、弟の長晟が本家を相続して、和歌山城主となっている。その長晟が大坂城へ向かったんだ」
大坂夏の陣の布陣図(出典:山川出版社『詳説日本史図録』)

大坂夏の陣の展開
浅野長晟・浅野長重兄弟、大いに活躍する
 さらに続けて、私「大坂方に塙団右衛門という豪傑がいるんだ。酒に強く、誰にも勇敢に戦う人物として、講談でもよく取り上げられているよ」
 あこな「私も読んだ本で名前は知っています」
 私「その塙団右衛門は、浅野家が豊臣家を裏切ったことを怒っており、長晟の名前を聞くと、一目散につっかかって行ったんだ。しかし、功をあせっていたため、あえなく戦死してしまっている。これを樫井の戦いというが、初期の戦いで、勝利した徳川方は意気上がったという」
 蛍子さん「ここでも、浅野家は活躍しているんですね」

 私「浅野長晟だけでなく、弟の長重も活躍しているんだよ」
 蛍子さん「この人は赤穂浅野家の先祖に当たる人ですね?」
 私「そうそう、前にも言ったが、赤穂浅野家の先祖が浅野長直だから、その人もお父さんにあたるから、赤穂浅野家の先祖と言っても間違いないね」
 葉月さん「どのように活躍するんですか?」
 私「夏の陣の布陣図をみると、徳川家康の西方の先陣に浅野長重・本多忠朝らがいまるね。大坂方にも真田幸村という戦略に長けた英雄がいた。その真田幸村が決死隊を組織して、不意に松平忠直の中央を突破して、幸村自身は馬を代えては三度も、家康の本陣に迫ったんだ」
 葉月さん「まるで上杉謙信が武田信玄に迫った川中島の戦いみたいですね」
 私「そうだね。家康の方は、一時にせよ、自刃を覚悟したんだ」
 あこな「幸村の必死さが伝わってきますね。でも、ここで家康が死んだら、歴史が変わっていたかも・・」
 蛍子さん「この家康の最大のピンチを救ったのが、我らの長重なんですね?」
 私「そうそう、その通りなんだ。長重らが必死に背後から攻め立てたので、ついに幸村の力尽きて、戦死してしまったんだ」

大坂夏の陣の展開
大坂城が炎上し、淀君・豊臣秀頼ら自害
家康の大掃除(豊臣家の滅亡)が完了
 葉月さん「いよいよ、豊臣家が最後を迎えたんですね」
 私「そうそう。大坂方の台所頭・大隈与右衛門を裏切らせて、大坂城の台所に放火させたんだよ。大坂方の大野治長は、千姫の脱出を条件に、豊臣秀頼と淀君の命乞いをした」
 葉月さん「千姫は家康の孫、徳川秀忠の娘で、豊臣秀頼と結婚させられていたんですね」
 あこな「これも、家康の都合で結婚させられていたんですか?」
 私「そうだな。これを政略結婚というんだよ」
 蛍子さん「ひどい話ですね」
 私「当時は、そういう時代だったんだ」
 蛍子さん「その後どうなったんですか?」
 私「千姫は、父の徳川秀忠の所に送り届けられたが、豊臣秀頼と淀君の助命は許さなかったんだ」
 あこな「ひどい話ですね」
 私「家康とすれば、勝手に条件を付けて、千姫を送り届けて来たと解釈していたんだよ」
 葉月さん「それで、淀君や豊臣秀頼が自害して、豊臣家は滅んだんですね」
 私「家康は大掃除を完了させ、次の年、75歳で亡くなっている」
 あこな「息子の秀忠には、大きな邪魔者を無くして、亡くなったのですね」
 私「そういうことだね。家康が亡くなった年、イギリスでは、あの有名なシェークスピアが亡くなっているんだよ」
 あこな「『ハムレット』や『ロメオとジュリエット』を書いた人ですね。とても同じ時代の人とは想像できませんが・・」 

大坂の役後の浅野家の様子
1601年   関ヶ原の戦功により、徳川家康は浅野長重に下野真岡藩2万石を与える
    関ヶ原の戦功により、福島正則は、広島50万石に移りました。
1611年   父の浅野長政が亡くなると、長重は常陸真壁5万石を相続しました
1616年 1月 和歌山城主の浅野長晟は、徳川家康の三女振姫と結婚しました
1619年 8月 長晟は、福島正則の改易後、広島城主となりました
1622年   浅野長重は常陸真壁より笠間に移り、笠間城主となりました
1632年   父・長重が亡くなると、長男・長直が家督を相続しました
1645年   浅野長直は播州赤穂に移り、赤穂浅野家の祖となりました
年表(5)

大坂の役後の浅野家の様子は?
浅野長晟は和歌山城主から広島城主に栄転
 蛍子さん「豊臣家が滅んだあと、浅野家はどうなったんですか?」
 私「浅野長晟は、徳川家の覚えがめでたく、家康の娘・振姫と結婚しているんだ」
 あこな「これも例の政略結婚なんですね」
 私「そうそう。浅野家も他の大名と同じように政略結婚に力を入れているね」
 葉月さん「浅野家は、広島浅野本家と言われていますが・・」
 私「それは、広島城主の福島正則が武家諸法度に違反してお城を改築したとして、取り潰し後、和歌山38万石から長晟が広島43万石に移って来たことによるんだ」

 あこな「どうして、福島家は取り潰しにあったんですか?」
 私「少し複雑なんだけれど、まず、福島正則は豊臣秀吉の最初からの家臣で、24万石の大大名に取りたてられているんだ。それを恩義に感ずる気持ちが他の大名より強くて、関ヶ原の戦いでも大坂の役で家康の側についているが、重要な役からはずされているんだ。だから少しでもミスがあれば、それにつけこんで、狙っていた節があると思うよ」
 あこな「いつの時にも、そんな生き方しかできない人がいるんですね」
 私「19年間も福島正則が治めていた広島なんだ。誰でも大名に入れることは出来ない。そこで信頼の厚い浅野長晟に決まったという背景があるんだよ」

大坂の役後の浅野家の様子は?
浅野長重は真壁から笠間城主に栄転
浅野長重の子・長直 赤穂に転出
 蛍子さん「浅野長重はその後どうなったんですか?」
 私「2代将軍の徳川秀忠は、大坂の役の戦功により、長重に褒美として石高を増やそうとしたが、長重はそれ断って、真壁を相続をお願いしたんだ」
 蛍子さん「それはどうしてなんですか?」
 私「真壁には父浅野長政の菩提寺があるらしい」
 あこな「優しいんですね」
 私「そうだね。秀忠は、その気持ちが嬉しかったのか、真壁の領地2万石に加え、笠間の領地3万石を与えて、長重を笠間の城主にしたんだよ」
 葉月さん「父長政の石高が5万石で、長重の国高が5万石では、出世でも何でもないように思えるんですが・・」
 私「父長政の石高は隠居料で、大名扱いではないんだよ」
 葉月さん「隠居料ってなんですか?」
 私「現役を引退した武士に対して幕府や藩が支給する生活費なんだよ。浅野本家は既に長晟が相続して広島城主になっているね。隠居料を引き継いだ長重が笠間の城主になるのは破格の扱いなんだよ」
 蛍子さん「そんな人が赤穂浅野家の先祖なんですね」
 私「そうだよ」
 蛍子さん「すごいですね。ずーっと以前、父と一緒に笠間に行ったことがあります。そこに大石家の先祖の家があったのを思い出しました」
 私「討ち入りした大石内蔵助の曾祖父で大石良勝だね。良勝は笠間でも筆頭家老だったんだよ」
 蛍子さん「大石家は、代々の家老職ということですか」
 私「そうなるね」
 蛍子さん「次は、いよいよ長直の赤穂赴任ですね」
 私「そういきたいところだが、今度は、吉良上野介のルーツも知っておく必要があるんだよ」

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