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1687年発行(第032号)

忠臣蔵新聞

生類憐みの令

成立の背景

五代将軍徳川綱吉 護持院僧隆光
 『三王外記』によると、隆光は綱吉の母桂昌院にこう進言したという。
 「隆光進言して曰く、人の嗣乏しきは、皆其の前生多殺生の報なり…殿下、誠に嗣を欲せば、蓋し殺生を禁じ、且つ殿下丙戌生まれをもって、戌は狗に属せば、最も宜しく狗を愛すべし」。
 つまり、子供が欲しかったら犬を愛せと進言した。これが生類憐みの令の先駆けとなったという。
貞享2(1685)年7月の条
 「先にも令せしごとくならせ給ふ御道へ犬猫出るとも苦しからず」
 「何方にならせ給ふとも今より後つなぎをく事有るべからずとなり」
 つまり、犬猫をつないではならない。この触れがその始まりという。

隆光進言説は妄想としてゴミ箱行き?
 生類憐みの令は、『三王外記』により、隆光進言説が一般に流布されています。
 これに一石を投じたのが、山室恭子氏です。「妄想としてゴミ箱行きにしてよかろう」と断言します。その根拠として、次の点を挙げています(『黄門さまと犬公方』)。
(1)「隆光が将軍の知遇を得たのは貞享三年、彼が江戸の知足院住職に任ぜられてからである。それまで彼は遠く大和の長谷寺にいたのだ。しかし、…生類憐れみの第一声は貞享二年である」(122P〜
*解説1:なるほど、第一声はそうかもしれません。しかし、山室氏が指摘しているように、最もピークを迎えたのは貞享4(1687)年の18回、特に犬に強い関心が寄せられたとあります(120P)。隆光によって強引に進められたことから、隆光進言説が出てきたとは言えないでしょうか。
(2)「『隆光僧正日記』のどこをめくっても生類憐れみ政策は私の進言に拠るものだなどという証言はおろか、この政策への言及すら見られない」(123P)。
*解説2:書いていないと言うことは、補強にはなりますが、決定的な根拠にはなりません。
(3)「跡継ぎを得るために生類憐れみを行ったとするならば、綱豊を正式の跡継ぎに決定した時点でそれを撤回するはずではないか」(123P)。
*解説3:初期の目的がそうであったからと言って、最後まで、その目的が継続されたとは限りません。
*解説4:『三王外記』の三王とは徳川綱吉・徳川家宣・徳川家継の3将軍のことです。江戸城内のさまざまな評判・伝聞を紹介したもので、作者は有名は儒学者である太宰春台と言われています。真贋様々なので、ゴミ箱行き説はともかく、扱いには慎重を期した方がいいとは思います。

最近、生類憐みの令が見直されているって?
 山室恭子氏は、長らく、東京大学史料編纂所の助手をした後、現在は東京工業大学の教授で、専門は日本近世史です。1998年に発行の『黄門さまと犬公方』(文春新書)で、「生類憐みの令の目的は、戦国時代の殺伐とした風潮を一掃することにあった」と主張しています。これが波紋を呼んでいるようです。
 徳川綱吉の時代は、殺伐とした時代だった。それが、綱吉の死後十数年目には「4代将軍徳川家綱の時代には奉公人を簡単に手討ちにしていた。月に2、3回は試し切りがあった。世の中が慈悲深くなったのか、近年はまったくお目にかからない」と老人が述懐するほどに穏やかな時代になったと言うのである。それが生類憐れみの令の効果だというのです。

 ここでは、山室説を詳細に紹介するつもりはありません。ただし、要点を紹介すると、山室氏が言っていることとは違う生類哀れみ令が浮き上がってきます。
(1)24年間に135回もお触れが出された(121P
(2)「そこまで律儀にせずともよいぞ」というお触れ(老中)の10日後には、「力の限り探索して発見するようにつとめよ」(将軍)いう朝令暮改のお触れが出ました。その後、綱吉は、老中を謹慎しました(134P
(3)レジスタンスがおこり、密告者には黄金20枚を出したり、最後には、10万頭の犬を収容する犬小屋を作って「お犬様」を保護する(158P
(4)24年間で69件(貞享4年に13件、元禄元年に8件、同2年に9件)だが、初期3年の間は、びしびし違反者を摘発したけれど、その後は方針転換して摘発はぐっと少なくなるのである(177P
(5)暴政や恐怖政治といった通説として流布しているイメージとは、実態はずいぶん異なっていたのではないかという印象が、にわかに濃くなってくる(179P
*解説5:一般に言われているような恐怖政治はなかったと言うのが、山室氏の説のようです。
 通常は、朝令暮改が2〜3回あると、出した人間を信用しません。相手が独裁者なら面従腹背して、嵐が待つのが庶民感覚です。私は、独裁者の恐怖政治というイメージを、山室氏のデータから教えて頂きました。

最新の学説を、大石学教授にお聞きしました
山室恭子説・井沢元彦説は対象外
意図より、結果を重視
 そこで、さらに、東京学芸大学教授の大石学氏に、色々とお聞きしました。
(1)幕府の公式記録である『徳川実紀』には、戦国時代以来の殺伐とした風習を改め、将軍徳川綱吉の徳を全国に示そうとする意図から発したとしています。
(2)将軍綱吉の側用人である柳沢吉保は、綱吉の徳を讃えるために、荻生徂徠らに『憲廟実録』を編纂させましたた。それには、庶民の仁心を願って発布されたものとしています。
(3)塚本学氏は、国立歴史民俗博物館「名誉教授で、『御当代記 将軍綱吉の時代 戸田 茂睡』の校注者です。塚本氏は『生類をめぐる政治−元禄のフォークロアー』で、同時期に展開された鉄砲改めや儒学の普及など一連の政策とあわせて、綱吉が国民の庇護者・管理者として武力を独占し、社会の安定化をめざしたと評価しています。
(4)綱吉が目指したのは、国民の教化を通じて戦国の遺風を断ち切り、社会の「平和」「文明化」を徹底することでした。

 大石学氏は、「綱吉の意図にもかかわらず、生類憐みの令は年とともに頻発・強化され、民衆生活を大きく規制・圧迫していった」と指摘します。
 綱吉の意図はどうあれ、庶民はそれをどう受け止め、どう感じたのでしょうか。
 史料の(1)では、尾張藩士朝日文左衛門重章が「おそれてびくびくする江戸の様子」を描いています。
 史料の(2)では、同じ朝日文左衛門が「この頃、江戸千住街道に犬を2匹磔にし、札にはこの犬は将軍の威を借りて諸人を悩ますので、このように処分したとありました。また、浅草の辺りでは、犬の首を切り、台の載せました。幕府は、この犯人を密告した者には金20枚を与えると言っているそうだ」と江戸庶民の反感・抵抗の姿を描いています。
 史料の(3)では、国学者の戸田茂睡が「犬に対して人間が怖気づいたり、恐れる様は、貴人や高位の人に接するのと同じである。打ったり叩いたりすることは別として、”お犬様”と言ったりするものだから、段々犬も増長して、人間を恐れず、道の真ん中に横たわって寝たり…もし、犬の手足を怪我させるようなことがあれば、外科に診せて、養生・治療を加える」とお犬さまの状態をリアルに表現しています。
 史料の(4)では、慶長から元禄にいたる幕府の法規集が「生類憐みの令については以前から仰せ出されている所、下々ではこのお触れを知らないのか、日頃、怪我をした犬が度々見かける。けしからんことである。今後、怪我をさせて犬については、犯人がはっきりして、よそから発覚した場合、町全体の落度とする。ならびに、辻番人の内で犯人を隠したりしたことが分れば、組全体の落度とする」とするように、生類憐みの令を守らず、犬を怪我さす者の多く、その犯人を隠す辻番人もいたことが分ります。

史料
(1)元禄六年一〇月条、江戸の有様戦々兢々たり(『鸚鵡籠中記』)
(2)頃日、江戸千住海道に犬を二疋磔置く。札に此の犬、公方の威を仮り諸人を悩すに仍って此の如く行う者也。又は浅草の辺に狗の首を切り、台にのせ置く。御僉議として黄二十枚かかる(『鸚鵡籠中記』)
(3)犬に人のおぢおそるる事、貴人高位の如し、うちたゝく事はさし置いて、お犬様といふ、此ゆへ、日にまし犬にもまごりつきて、人をおそれず、道中に横たハりに臥して…・もし手足をそこぬる事あれバ、外科をかけて養生治療をくハふる(『御当代記』)
(4)生類憐憫の儀、前々より仰せ出され候ところ、下々にて左様これなく、頃日疵付き侯犬共度々これあり、不届きの至に侯。向後、疵付き候手負犬、手筋極り候て、脇より露見致し候はゞ、一町の越度たるべし。并びに辻番人の内、隠し置き、あらわるゝにおいては、相組中越度たるべき事。
 戊五月廿三日(『御当家令条』)

生類憐みの令により殺伐とした気風が解消は早計?
(1)慶安の変・承応の変以降、戦乱らしきものはなし
(2)殉死・仇討ちの禁止、末期養子の禁緩和
(3)生類憐みの令がなくとも、殺伐として気風は解消
(4)高校教科書では既に扱っており新説で何でもない
 綱吉の意図はどうあれ、庶民が困り、不満を持っていたことが分ります。
 また、山室恭子氏の生類憐みの令により、殺伐として気風がなくなったという評価は早計ではないでしょうか。
(1)1651年の慶安の変、1652年の承応の変以降、戦乱らしきものは姿を消しました。
(2)寛文5(1665)年、証人の制の禁止、殉死の禁止、仇討ちの禁止など寛文の三大美事が試行されました。享保元(1716)年、末期養子の禁が緩和されました。
(3)高校の教科書では、既に「綱吉はまた仏教にも帰依し、生類類憐みの令を出して、犬を大事にし、生類すべての殺生を禁じた。この法によって庶民は迷惑をこうむったが、野犬が横行する殺伐とした状態や、他人の飼犬までも殺生することを辞さない社会に不満をいだくかぶき者などの存在を、戦国遺風ともども断つことにもなった」(山川出版社『小説日本史B』)と扱っており、新説でも何でもありません。


人間には光と影がある
人間の歴史にも光と影がある
 人間の1日には、光の部分と陰の部分があります。
 人間の一生には、光の部分と陰の部分があります。
 人間の一生の総和である歴史のも、当然、光の部分と陰の部分があります。

庶民の側に立つ視点
権力者の側に立つ視点
両方の視点
 忠臣蔵が人気のあるのは、権力者に立ち向かう庶民という要素があるからでしょう。
 「生類憐みの令の目的は、戦国時代の殺伐とした風潮を一掃することにあった」というのは、権力者の視点です。「戦争は、科学技術の発達に大きく貢献した」という発想と同じで、権力者・独裁者の政策を擁護する険性を持っています。
 高校の教科書のように、生類憐みの令は、「この法によって庶民は迷惑をこうむった」、同時に、「野犬が横行する状態を断った」「かぶき者などの存在を戦国遺風ともども断った」と、両方の視点での指摘が正しいのではないでしょうか。
出典
大石学著『元禄時代と赤穂事件』(角川選書、2007年)

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