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1687年発行(第034号)

忠臣蔵新聞

生類憐みの令(3)

犬小屋とその費用を庶民に転嫁

庶民の不満増大

犬小屋
庶民を苦しめた犬小屋のとは?
 元禄8(1695)年10月29日に野犬が増加し、それを収容するために幕府は中野村に犬小屋を完成させた。広さは16万坪で、25坪の御犬小屋が290棟、7坪半の日避け場が295棟、小御犬養育所が459箇所もあった。
 それ以外にも大久保村に犬小屋を建てて野犬を収容している。
 その奉行に綱吉側近の米倉昌尹と藤堂良直が任命された。
 『常憲院殿御実紀』元禄6(1693)年9月10日、11日の条
 「鷹匠から小普請などへの配転が行われ、鷹方は廃止され、鷹匠町は小川町、餌指町は富坂町に改められ、鷹は新島に放たれた」とある。この鷹役人が犬役人に転じたのである。
 犬一匹の掛かりが一日に米二合、銀二分であった。最も多い時期で8万2000匹の犬が収容されたというから、1年にして9万8000両が消費された事になる。
 犬小屋に収容しきれない犬は、周辺の村々に預けられ、幕府から一匹につき1年に金二分ずつの養育金が支払われた。
税金
 犬小屋の経費は庶民に負担させられた。
 江戸の町民は間口一間につき金三分づつ、関東諸国も犬扶持として高百石につき一分ずつ出させられ、豆、藁、菰なども供出させられたのである。ちなみに間口が五間の家では五間×三分=一五分(金三両三分)となった。
結果
@襲いかかってきた犬を切り捨てたために切腹させられた武士がいた。
A自分の家の井戸に野良猫が落ちて死んだという科で、八丈島に流された人もいた。
Bとある与カが、門の上に集まってくる鳩に礫を投げたために、同僚全員が連帯責任で謹慎させられた。
C頬に止まった蚊を叩いた小姓は流罪、それを見ていて報告しなかった上司は閉門に処せなれた。
Dある武士は、五歳の子供の病気に燕の肝が効くと聞いたので、飛んで来た燕を吹き矢で殺した。それが発覚して親子ともに斬罪になり、見ていた人は流罪になった。
E鶏を盗んで売った男が磔にされた……。
F人々は生き物を恐れた。「お犬様」にかかわり合わないように身をすくめて歩く人間の側を、獰猛な畜生が横行俳個する
G殺すか殺されるかの戦国時代以来、血を流すことに価値があった武士の論理は、生類憐みの令と服忌令によって死の穢れとともに廃された。
Hかぶき者の無頼行為そのものの存在も許さなくなったのである。
I元禄9(1696)年8月に犬を殺した江戸の町人を獄門に処している。


庶民の幕府への不満(1)
 宝永6(1709)年、太政大臣の近衛基煕は、日記に「諸国の人民は将軍綱吉が死んだことを聞き、内心悦びをかみしめているだろうか」と、将軍綱吉の死を内心歓迎している様を描いています。
 幕府の公式記録である『徳川実紀』には、生類憐みの令があまりにも厳しくなった理由として、禁令に背く者が後を絶たず、幕府の役人たちがうまく対応しなかったため、禁令が次第に厳しくなり、庶民が苦しんだとしています。
 『御当代記』は、戸田茂睡が延宝8(1680)年5月の徳川綱吉将軍就任から元禄15(1702)年4月までの編年体の記録です。江戸庶民の風評が分る貴重な史料です。そこには、生類憐みの令が心外の結果を生んだのは、柳沢吉保らの責任であると書いています。

史料
 諸国人民此の凶事を聞き、内心悦びを含むもの歟(『近衛基照日記』)
庶民の幕府への不満(2)
 将軍徳川綱吉・側用人柳沢吉保の時代に人々は窒息するような息苦しい状態に置かれていた。
 だから人々は綱吉に対して、誰かスカッとするようなことをやることを期待していたのである。


独裁政治の恐怖
水戸黄門ですら意見できず
廃止は綱吉死後の10日目
 正保3(1646)年1月8日、徳川綱吉が生まれました。
 延宝8(1680)年7月27日、徳川綱吉が将軍の宣下を受けました。
 貞享2(1685)年7月、「犬猫をつないではならない」というお触れが、生類憐みの令の最初とされています。
 元禄13(1701)年12月6日、徳川光圀(水戸黄門)が亡くなりました。生類憐みの令に嫌悪感を抱いた水戸黄門さんは、将軍綱吉に犬の毛皮を長持に一杯送りつけ、悪法を改めさせたと言うエピソードがあります。
 宝永6(1709)年1月10日、将軍徳川綱吉が亡くなりました。この時、綱吉は、側用人の柳沢吉保を枕元に呼んで「生類をいたわるよう」にと厳命しました。次の将軍となる徳川家宣と老臣などを呼んで、「生類をあわれむ事、たとえ誤ったことであっても、これのみは100年の後も、余が将軍であった時のように維持することこそ、孝であると考えよ」と述べました。
 まさに、遺言として、100年先までの、残して置くようにと命令したというのです。
 宝永6(1709)年1月20日、徳川家宣は、生類憐みの令を廃止しました。
 宝永6(1709)年5月1日、徳川家宣が将軍の宣下を受けました。

史料
 この時吉保に仰けるはさきに好生の御志あつく、年頃生類いたはるべき事厳命あり。このころ御病中にも、吾と老臣等とを共にめし、我生類をあはれむ事、たとひひが事にもせよ、これのみは百歳の後とても、我世の如くなし置れんこそ、孝とは思ふぺけれと宣ひつる(『徳川実紀』)

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