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1695年発行(第037a号)

忠臣蔵新聞

将軍綱吉の恐怖政治・改易

大名の改易は45家175万石
旗本の改易は100家余

越後騒動の舞台となった越後高田城
綱吉の恐怖政治に恐れおののく大名や旗本
 武断政治とは、武力によって専制的に行う政治と定義できます。現実的には、改易(領地没収)と減封という形で表現されます。
 反対の用語に、武力を用いず、学問や法制の力によって人民を徳化し、世を治める文治主義政治があります。江戸時代は、儒教的徳治主義で治める政治を文治政治といいます。
 一般に、徳川家康から三代将軍の家康までを武断政治といい、四代将軍家綱の時代からを文治政治といいます。この転換の契機となったのが、慶安の変(慶安4=1651年)と承応の変(承応元=1652年)です。
 しかし、下の表で見るように、5代将軍徳川綱吉の時には、前代より石高にして倍以上の改易を行っています。改易された旗本家は100家以上に登っています。また、越後騒動に見るように、陰湿というか執拗な綱吉の性格が反映されています。
 まさに、綱吉の恐怖政治と言えます。大名や旗本は、恐れおののいていたのです。

原因別改易大名数と没収高(家康〜家光時代)
軍事的理由 関ヶ原の戦い 改易 88家 416万石
減封 5家 216万石
大坂の役 改易 2家 67万石
末期養子の禁など 改易 63家 413万石
武家諸法度違反など 改易 61家 594万石
改易外様 改易親藩・譜代 没収石高
家康 13家 28家 360万石
秀忠 15家 23家 360万石
家光 19家 28家 360万石
家綱 13家 16家 75万石
綱吉 28家 17家 175万石
改易の旗本100家余

越後騒動(1)
松平忠輝の改易
 慶長15(1610)年、徳川家康と側女茶阿局の間に生まれた6男松平忠輝が福島75万石に入封し、名門の長沢松平氏の家督を継ぎました。
 慶長19(1614)年、松平忠輝は、前田家・上杉家を牽制するため、幕府の許可を得て、高田城を完成させました。大坂冬の陣の時、忠輝は、江戸城留守居を命じられたことを不満とし、岳父(妻の父)の伊達政宗の催促で江戸に向かいました。
 元和元(1615)年、大坂夏の陣の時、忠輝は、北陸方面軍の大将を命じられましたが、戦闘に遅参したり、行列を乱したとして、旗本の長坂十左衛門と伊丹弥三を惨殺しました。これを聞いた家康は、「以後対面を許さず、早々に下手人を差し出せ」と申し渡しました。しかし忠輝は正当性を主張して、下手人を差し出しませんでした。
 元和2(1616)年、家康が亡くなると、将軍徳川秀忠は、家康の遺言として、松平忠輝に改易を申し渡しました。

越後騒動(2)
松平忠直の改易
 元和2(1616)年、酒井家次が上野高崎より入封しました。
 元和5(1619)年、松平忠昌が信濃川中島より入封しました。忠昌の兄である越前松平家の松平忠直(家康の次男、秀忠の甥)が乱心により改易となりました。その結果、弟の松平忠昌が越前福井50万石へ転封となりました。

越後騒動(3)
松平光長の改易
 寛永元(1624)年、越前松平家を継いだ10歳の松平光長(祖父は秀康、父は忠直、母は将軍秀忠の三女勝子)が越前北ノ庄より越後高田26万石へ入封しました。
 寛文5(1665)年、越後大地震で、藩の重役の小栗正高と荻田隼人が亡くなりました。小栗正高の嗣子は小栗美作で、荻田隼人の嗣子は荻田主馬でした。首席家老の小栗美作は、幕府から莫大な援助を受けて高田城の修復に成功しました。他方、家老の荻田主馬は、三の丸の修復工事に失敗しました。小栗美作はその後の難工事を完成させました。
 宝永2(1674)年、松平光長の嫡子松平綱賢(42歳)が亡くなりました。松平綱賢には世継がいませんでした。そこで、3人が候補になりました。
(1)永見万徳丸(15歳)は、松平忠直の次男である松平長頼の遺児です。
(2)松平長良こと永見大蔵(50歳)は、松平忠直の三男です。
(3)小栗掃部は、松平忠直の長女「おかん」と首席家老の小栗美作の間に生まれました。

 藩の重臣は、永見大蔵については松平光長の血に一番近いが50歳であることから除外し、次いで血が近く年齢も若かった万徳丸を推薦しました。
 その後、藩の財政が悪化すると、家老の荻田主馬を中心に、反美作派が結成され、小栗美作に反対されて藩主になれなかった永見大蔵も加担しました。その数は890人に達したといいます。逆に美作派は130人だったといいます。
 延宝7(1679)年、幕府は、この内紛を知り、評定所で大老酒井忠清を中心に吟味が行われました。その結果、永見大蔵らは一味徒党を組んだとして、首謀者を処分しました。
 この幕府の処置に対して、反美作派は、小栗美作が酒井忠清に賄賂を贈った結果だとして、多くの脱藩者がでました。

 延宝8(1680)年、将軍徳川家綱が危篤状態になりました。世継を巡って、徳川家綱の弟である館林藩主の徳川綱吉と家綱の甥(家綱の次弟綱重の子)である甲府藩主の徳川綱豊が候補に挙がりました。この時、大老の酒井忠清は「鎌倉幕府の先例に従い、京都から有栖川宮幸仁親王(父は後西天皇、母は松平光長の妹寧子)を将軍に迎えよう」と提案しました。
 この提案に対して、老中の堀田正俊が「血筋のお方がいるのに、鎌倉幕府の先例に従う必要はない」と反対し、他の老中も堀田正俊の正論を支持したので、徳川綱吉が将軍と決定しました。
 延宝8(1680)年、徳川綱吉が5代将軍になりました。その3ヵ月後、前の大老である酒井忠清が亡くなりました。

 反美作派は、酒井忠清の政敵である堀田正俊に賄賂を贈って、美作派の追い落としを図りました。
 天和元(1681)年、将軍綱吉は、反美作派から出されていた越後騒動の再審を取り上げ、次のような処分を決定しました。
 小栗美作・掃部父子を非として切腹、永見大蔵・荻田主馬を騒動を起こしたとして八丈島に遠島という喧嘩両成敗の判決に変更しました。さらに、藩主松平光長を「家中を鎮撫する事あたわず」として、伊予松山の松平久松家にお預けとしました。また、世継の永見万徳丸も備後福山藩に御預けとして、越後高田藩を改易(取り潰し)に処しました。
 つまり、徳川綱吉は、酒井忠清の越後騒動の決着を再度仕切りなおすという異常な行動に出たことになります。

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