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元禄14(1701)年3月12日発行(第038号)

忠臣蔵新聞

上座の将軍綱吉は
勅使を下座に迎える
最高に権威を象徴する場を演出

将軍綱吉は天皇と同列を演出
それが勅使伝奏

上段の間で将軍(左)が勅使(右)より挨拶を受ける
『徳川盛世録』より(模写は角石理和さん)
上段の間に立つ将軍が次の間、
三の間の諸大名から挨拶を受ける
『徳川盛世録』より(模写は角石理和さん)
クリントンさんが来社
その直前の傷害事件に匹敵?

 将軍綱吉さんが喧嘩両成敗という幕府の原則を破って、浅野内匠頭さんだけに厳しい処分を行いました。
 当時からこの片落ち裁定には幕閣だけでなく、旗本までが異儀を申しましたが、綱吉さんの意向を察知した側用人の柳沢吉保さんが強引に押し通しました。
 その理由は色々言われていますが、上の図を見れば答は簡単です。
 3月12日に白書院の上段の間で将軍(左)が勅使(右)より挨拶を受ける。
 3月14日同じ白書院の上段の間で将軍が返礼をする。そのことを諸大名に見せ、自らの権威を示すことにしていたのです。
 松の廊下の刃傷は、今風に言えば、クリントン大統領を迎える直前に職場で傷害事件が起きたようなものです。
伝奏屋敷跡

ドキュメント
元禄14年(1701)
1月28日

 吉良上野介さんは京都御所に参内して、東山天皇に将軍綱吉さんの年賀を伝えました。
 綱吉さんは年賀の慣例を特に重視しており、この使いはとても重要であり、その任務を上野介さんは立派に果たしました。
 このことからみても将軍綱吉さんは高家筆頭としての上野介さんを高く評価していたことがわかります。
2月4日
 幕府は慣例により浅野内匠頭さんを勅使御饗応役に、伊達左京亮宗春さんを院使御饗応役に任命しました。上野介さんが江戸に帰ってきて直ぐに準備にかかれるようにするためです。
2月29日
 上野介さんが江戸に帰り、将軍綱吉さんに復命しました。
 上野介さんが江戸に帰ったと聞いて、内匠頭さんはさっそく挨拶に出かけました。この時の進物が問題になったといいます。
3月11日
 勅使・院使が品川から伝奏屋敷に到着しました。老中の土屋相模守さん、高家衆、内匠頭さんらが出迎えました。内匠頭さんは薬を呑んでやって出かけることが出来たといいます。
3月12日
 勅使・院使が登城して、白書院の同じ上段の間において勅旨・院宣を将軍綱吉さんに伝えました
3月13日
 勅使・院使は将軍綱吉さんが開いた能楽を鑑賞する予定です。 
3月14日
 同じ白書院の上段の間で将軍が返礼をする予定です。

史料(1)
 三月十三日御饗応御能云々に続く次の或説ハ此間の註ナリ或説ニ不快之筋ハ饗応役被仰付節月番御老中江長矩被断ハ私儀終ニ此御用不相勤不調法抔出来仕如何可有御座哉無覚束存由被申御老中会拶ニ最ニ候、然トモ吉良上野介ハ功者ニ候間是ニ相談候而被勤可然由差図故翌日上野介宅ニ被参此度伝奏饗応之儀被仰付候処ニ初而故別而不案内ニ候間、勤方之儀万端被成御差図可被下旨被申候(『冷光君御伝記』)

勅使御饗応役、それとも勅使御馳走人?
 最近、本社に、読者から「浅野内匠頭さんが任命されたのは、勅使御饗応役ですか、勅使御馳走人ですか」というお便りがありました。
 本紙は、史料(1)などの史料や一般的に使われている勅使御饗応役として来ました。
 この際、詳細に検証してみました。

学者や専門家は?
 次に学者や研究者はどう表現しているのでしょうか。
(1)八木秀哲氏は「勅使御馳走役」としています(『忠臣蔵』)。
(2)松島榮一氏は「勅使御馳走役」としています(『忠臣蔵』(10P))
(3)飯尾精氏は「勅使御馳走人」としています(『実録忠臣蔵』(13P))
(4)渡辺世祐氏は「勅使接伴役」としています(『正史赤穂義士』(10P))
(5)吉田豊氏は「勅使の饗応役」としています(『古文書で読み解く忠臣蔵』(10P))
(6)大石学氏は「勅使馳走役」(196P)「勅使饗応にあたる大名」(201P)としています(『元禄時代と赤穂事件』)
(7)山本博文氏は「勅使饗応役」としています(『忠臣蔵のことが面白いほどわかる本』(14P))
(8)中島康夫氏は「勅使饗応役御馳走役)」としています(『大石内蔵助の生涯』(30P))
*解説:学者や研究者の間でも、表現が違っていることが分ります。
 大石学氏は、「勅使饗応の儀」という表現と、「馳走人」という表現とを使って、その違いを明示しています。そういう意味では、中島康夫氏の「勅使饗応役(御馳走役)」が役職としては正しい表現になるのでしょうが、本紙のような多くの人を対称にしている場合、表意的には「勅使饗応役」が適していると思います。

史料では?
 史料を検証すると、史料(2)の(1)は御馳走人史料(2)の(2)は勅使御馳走人史料(2)の(3)は館伴(饗応役)、史料(2)の(4)は公卿饗応史料(2)の(5)は饗応役となっていて、御馳走人が正式な名称だと思いますが、様々な呼称であることが分ります。

史料(2)
(1)此間の遣恨覚たるかと声を懸切付申候其太刀音ハ強く聞候得共後に承候へは存の外切れ不申浅手にて有之候我等も驚き見候へは御馳走人の内匠頭殿也(『梶川氏日記』)
(2)勅使御馳走人浅野内匠頭儀高家吉良上野介江意趣有之由にて理不尽に切付之(『徳川幕府御日記』)
(3)館伴浅野内匠頭長矩義央が後より宿意ありといひながら少さ刀もて切付たり(『常憲院殿御実紀』)
(4)けふ公卿饗応の御設あり(大石学『元禄時代と赤穂事件』(195P))
(5)不快之筋ハ饗応役被仰付節月番御老中江長矩被断ハ私儀終ニ此御用不相勤不調法抔出来仕如何可有御座哉(『冷光君御伝記』)

出典
『忠臣蔵』(赤穂市)

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