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1701年2月15日発行(第039号)

忠臣蔵新聞

事件の背景をさぐる(1)

浅野内匠頭さんと吉良上野介さんの性格
(1)几帳面な内匠頭さん/能吏な上野介さん
(2)従五位下の内匠頭さん/従四位上の上野介さん

浅野内匠頭長矩さん 吉良上野介義央さん
 内匠頭さんは几帳面で、正義感が強く、短気なお坊ちゃん
 元禄8(1695)年内匠頭さんは病気のために、弟の大学さん(26歳)を正式に養子としています。この時内匠頭さんは29歳でした。体力的にも病弱といえます。
 (歴代の俳優の中では風間杜夫さんがはまり役) それだけに内匠頭さんを支える家老の役割は重要だったと言えます。
 上野介さんは朝廷との調整役、能吏で傲慢なエリート
 (歴代の俳優の中では石坂浩二さんがはまり役)
 (悪役の進藤栄太郎さんや月形竜之介さんでは朝廷の調整役は務まらないでしょう)
持病ゆえに「発作」的に上野介さんに切りつけた?
「発作」的ならなぜ上野介さんを狙ったのか?
因縁があったと見るのが自然
 内匠頭さんの伝記によると、「11日の未明み勅使らが江戸に着きました。内匠頭さんは少々ご機嫌がよくありませんでした。そこで寺井玄渓という赤穂藩の医者のお薬をお飲みになられました。勅使接待という役を命じられ、昼夜尽力したので持病の”つかえ”がでました」とあります。
 この病気の為に発作的に上野介さんに刃傷に及んだという説があります。「発作」的ならその場の誰でもよかったわけです。特に上野介さんを「発作」的に狙ったというのであれば、やはり何かの「因縁」があったと見るのが自然ではないでしょうか。
史料
 「同十一日未明伝奏衆江戸御着座冷光君(浅野長矩)にハ少々御不快之由ニ而為御保養寺井玄渓某赤穂御医師三百石十人扶持とあり御薬被召上今度御役儀被蒙仰候以後昼夜御精力御尽し被成候故、御持病之御痞気被成御座」(『冷光君御伝記』)

(1)以前からあった乱心説
精神科医が主張する乱心説は?
重大な事実誤認に基づく診断ミス、誤診だ
 これは、浅野内匠頭さんが切腹した後の記者会見の模様です。
 ある記者が「浅野内匠頭さんは乱心によって、刃傷に及んだという噂がありますが、どうですか?」と尋ねました。
 赤穂藩の広報担当者は「確かにあります。精神科医の中島静雄さんが田村家の記録から、”切腹直前でも、わが殿は食慾があり、酒をのみたいとか、たばこをくれとかいっている”ということを根拠に、”自分のやったことが理屈ではわかっておりながら、本当の意味でわかっていない”、つまり”自分のやったことを家族や重臣に対して何も報告していない”ということから、わが殿は『乱心』だと主張しています。
 しかし、これには異論があります」と答えました。
 別の記者が「その異論とはどういうことですか?」と聞きました。
 赤穂藩の広報担当者は「精神科医の中島氏には重大な事実誤認があります。中島氏は”自分のやったことを家族や重臣に対して何も報告していない”ことを診断の基本にしていますが、わが殿は手紙を書くことを希望しましたが、幕府の意向を汲んで田村家が許可しなかったのです。これが事実です。こんな誤診で裁判されたんでは、たまりません。冤罪事件です」と語気を強めて回答しました。

(2)以前からあった乱心説
その根拠は、内匠頭さんの叔父さんが乱心で刃傷?
 以前からあった浅野内匠頭さんの乱心説のもう1つは、内匠頭さんのお母さんである波知さんの兄(忠勝さん)に関してです。
 『寛政重修諸家譜』に従って、赤穂浅野家と鳥羽内藤家の概略をお話します(敬称略)。
(1)内藤忠政の次男が忠勝で、1673(延宝元)年、忠勝の弟忠知に2000石を分地しています。
 1680(延宝8)年、4代将軍の徳川家綱が亡くなった時、内藤忠勝(26歳)は、増上寺の警備を命じられました。この時、仲の悪かった永井尚長(27歳)が連絡を怠って、忠勝に恥をかかせたということがありました。そこで、忠勝はこれを恨んで尚長を殺害しました。これを芝増上寺の刃傷事件といい、幕府の記録では、「乱心」となっています。
 しかし、内藤本家は断絶しましたが、分地していた内藤忠知には累が及びませんでした。
(2)浅野長友の嫡子が長矩で、1679(延宝7)年、長矩の弟長広に3000石を分知しています。
 1701(元禄14)年、5代将軍の徳川綱吉が勅使接待をしている時、長矩(35歳)は、勅使接待を命じられました。この時、長矩は「遺恨あり」とて、吉良義央(61歳)に刃傷に及びました。松の廊下の刃傷事件といい、幕府の記録では、「宿意あり」となっています。
(5)幕府の浅野内匠頭への判決書です。それにも、「意趣有之」と記録されています。
(3)この時、浅野長矩の母方のおじ(舅父)にあたる内藤忠知は、松の廊下の刃傷事件で、出仕は一時留められましたが、その後許されています。
(4)しかし、長矩の弟長広は、閉門となり、城地も没収となりました。その後、閉門は許されましたが、本家の浅野広島にお預けとなり、浅野家の再興はなりませんでした。
内藤忠政 忠次
忠勝
忠知
波知
‖━ 内匠頭長矩
浅野長直 長友 大学長広
史料
(1)内藤忠勝
「延宝元年九月十一日遺跡を継、二千石を弟虎之助忠知に分ち与ふ。(中略)八年六月二十六日増上寺にをいて厳有院殿の御法会行はるゝの時、永井信濃尚長遠山主殿頭頼直とゝもに、かの山に勤番せるのところ、忠勝乱心し信濃守尚長を殺す。このむね上聴に達し、二十七日芝の青龍寺にをいて死をたまふ」(『寛政重修諸家譜』)
(2)浅野長矩
「(延宝)七年八月二十一日弟大学長広に私墾田三千石をわかちあたふ。十四年三月十四日勅使饗応の事をうけたまはりて登営するのところ、遺恨ありとてにはかに自刃をふるひ吉良上野介義央に傷けしにより、田村右京大夫建顕にめしあづけらる。時に長矩、私の宿意ありとてをりからをも弁へず、営中にして卒爾に刃傷にをよびし事、其罪かろからずとて、即日建顕が第にをいて死をたまふ」(『寛政重修諸家譜』)
(3)内藤忠知
「元禄十四年五月六日さきに姪浅野内匠頭長矩が事に坐して、出仕をとゞめらるゝのところ赦免ありて、なほ拝謁をはゞかり、六月二十五日ゆるさる」(『寛政重修諸家譜』)
(4)浅野長広
「十四年三月十五日長矩が事に坐して閉門せしめられ、宗家の領地を収公せらるゝにをよびて長広が采地もをさめらる。十五年七月十八日閉門をゆるされ、厳命によりて松平安芸守綱長が封地におもむく」(『寛政重修諸家譜』)
史料
(5)「左之通被 仰付之
              浅野内匠
 吉良上野介江意趣有之由にて折柄と申不憚 殿中理不尽に切付之段重々不届至極に被 思召依之切腹被 仰付者也
   巳三月十四日
 右之段書付大目付庄田下総守(安利)江相模守相渡之(略)」

(3)以前からあった乱心による御家安泰説
正常でも、御家安泰のため乱心を捏造した鳥羽内藤家説?
綱吉の時代まで乱心事件は15件、すべて御家安泰
乱心にして、御家安泰を図ったというのが本音
 浅野長矩の乱心説は、母の兄(叔父)の乱心を事実という前提に成り立っています。
 江戸時代、乱心はどのように扱われていたのでしょうか。乱心が原因で大名が処罰を受けたのは、3代将軍の徳川家光になってからです。5代将軍の徳川綱吉の時代までを数えると、15件ありました。処分結果は全て除封、つまり土地は減らされても、大名家は維持するという内容です。
将軍 西暦 元号 乱心大名 藩名 結果
家光の時代 01 1644年 正保1年 松下 長綱 陸奥三春 除封
02 1645年 正保2年 池田 輝興 播磨赤穂 除封
03 1648年 慶安1年 稲葉 紀通 丹波福知山 除封
家綱の時代 04 1667年 寛文7年 水野 元知 上野安中 除封
05 1679年 延宝7年 土屋 直樹 上総久留里 除封
06 1679年 延宝7年 堀 通周 常陸玉取 除封
07 1680年 延宝8年 内藤 忠勝 志摩鳥羽 除封
綱吉の時代 08 1686年 貞享3年 松平 綱昌 越前福井 除封
09 1687年 貞享4年 溝口 政親 越後沢海 除封
10 1693年 元禄6年 本多 政利 陸奥岩瀬 除封
11 1693年 元禄6年 松平 忠之 下総古河 除封
12 1695年 元禄8年 織田 信武 大和松山 除封
13 1698年 元禄11年 伊丹 勝守 甲斐徳美 除封
1701年 元禄14年 浅野内匠頭の刃傷事件
14 1702年 元禄15年 松平 忠充 伊勢長島 除封
15 1705年 宝永2年 井伊 直朝 遠江掛川 除封
 次に、乱心と称して、御家騒動を無事解決して、御家安泰にした例はあるのでしょうか。
 浅野内匠頭の刃傷事件以前、13件中の8件が殺人事件などを起こして、乱心とされ、除封されたが、御家は安泰となっています。
 刃傷事件以後、綱吉の時代には2件中1件が暴政を乱心とされ、除封されたが、御家は安泰となっています。
 統計で見る限り、本当に乱心であったのか、乱心として、御家安泰を図ったのかは、不明としか言えません。
 浅野内匠頭の叔父(内藤忠勝)の場合も、乱心であったかどうか、不明と言うのが正しいのではないでしょうか。そのことから、浅野内匠頭の乱心説は、根拠がないと言えるのではないでしょうか。
(02)1631(寛永8)年(1631年)、赤穂藩主だった兄の池田政綱が継嗣無くして死去すると、赤穂藩の池田氏は一時的に改易されたが、家康の外孫に当たるということから、幕命で特別に輝興が1万石加増の3万5、000石で赤穂藩主となることを許されて、赤穂藩主となった。
 1645(正保2)年、突如として発狂した輝興は、正室をはじめ侍女数人を斬り殺すという事件を起こしました。岡山藩主の池田光政預は、幕府に乱心と報告し、輝興の身柄をあずかり、輝興の領知は除封となりましたが、輝興の嫡男政種に引き継がれました。
(03)1648(慶安1)年、福知山藩主の稲葉紀通は、重税に反対する領民を多数捕らえて殺害したり、隣藩の丹後宮津藩主の京極高広と争いをするなどの事件を起こしました。領民は、謀反の疑いを幕府に訴えました。稲葉紀通は、鉄砲自殺しました。その結果、幕府は、乱心として、除封された稲葉家は嫡子大助が引き継ぐことを認めました。
(04)1644(正保1)年、水野元知は、安中藩の初代藩主・元綱の次男として生まれました。
 1664(寛文4)年、水野元知は、兄元倫がなくなり、父が隠居して2代藩主となりました。
 1667(寛文7)年、水野元知は、乱心して妻を切りつけるという事件が起こしました。藩は乱心として幕府に訴えました。その結果、幕府は、乱心として、身柄を松本藩の水野忠職に預け、水野家は除封されましたが、水野元知の長男元朝にその存続を認めました。
(06)1679(延宝7)年、玉取藩主の堀通周は、突如、錯乱して家臣を斬り付けるという事件が起こりました。子供がいなかったので一時改易処分となりました。その後、幕府は、堀通周の弟である堀利雄を養子として、3000石に除封して、堀家の存続を認めました。
(07)1680(延宝8)年、鳥羽藩主の内藤忠勝 が永井尚長を殺害する事件を起こしました。幕府は、これを乱心として、内藤忠勝の弟忠知に、除封して、内藤家の存続を認めました。詳細は上述しています。
(08)1661(寛文元)年、松平綱昌は、越前国松岡藩5万石の藩主松平昌勝の長男として生まれました。
 1675(延宝3)年、宗家の越前国福井藩で御家騒動が起こり、藩主昌親の反対派が昌親の兄昌勝(越前国松岡藩主)の子綱昌を養嗣子として宗家に迎えました。
 1675(延宝3)年、元服した綱昌は、4代将軍徳川家綱から綱の一字を賜り、従五位下・侍従の越前守綱昌となりました。
 1676(延宝4)年、綱昌(16歳)は、養父昌親が致仕したため、福井藩52万5282石を相続しました。
 1681(延宝9)年、綱昌(21歳)は、理由も無く側近を殺害するなど、奇怪な行動をするようになりました。
 1686(貞享3)年、幕府は、綱昌の乱心を理由に領地を収公し、致仕していた養父の昌親に新たに25万石を与えて存続を許しました。
 この背景には、致仕していたとはいえ、実権を握る養父昌親が養子綱昌の反抗に対して、乱心を理由に失脚を策動したともいわれています。
(09)1683(天和3)年、溝口政親は、養父で先代藩主の溝口政良の死去により、越後沢海藩主となりました。
 1687(貞享4)年、溝口政親は、暗愚で酒乱だったので、乱心として、家臣団から幕府に訴えられました。幕府は、乱心として、政親は兄の水口藩主の加藤明英にお預けとして、終身500俵扶持の身となった。溝口家は廃絶しましたが、加藤明英は5000石加増されています。
(12)1694(元禄7)年、大和宇陀松山藩主の織田信武が突然自殺しました。幕府は、旗本浅野長恒らを派遣して調査した結果、乱心として扱い、織田信武の長男である織田信休を2万石に減封して、丹波柏原藩に転封を命じました。
 しかし、本当は織田家の御家騒動と言われています。宇陀松山藩の家臣団は、宇陀松山藩初代の織田信雄(織田信長の次男)に仕えていた古参衆と2代織田高長に仕えていた加賀衆の二派に分かれて、対立していました。4代織田信武の時代になると、加賀衆の中山助之進正峯と古参衆は財政問題で激しく対立するようになりました。
 そこで、織田信武は、古参衆の実力者を殺害しました。その騒ぎの最中に、織田信武が自殺したのです。
 加賀衆の中山助之進正峯は、田織田信休と共に丹波柏原に同行しています。
(14)1685(貞享2)年、松平忠充は、父の伊勢長島藩の初代藩主である松平康尚が病気を理由に隠居したため、2代藩主となりました。
 1702(元禄15)年、松平忠充は、突如、重役3人に切腹を命じ、その子供らを処刑するという事件を起こしました。遺族はこのことを幕府に訴えました。幕府は、乱心として、伊勢長島藩を廃絶し、2男松平康顕に5000石、3男松平尚慶に1000石を与え、松平家の存続を認めました。

参考資料
赤穂市発行(『忠臣蔵第三巻』)
中島静雄著『精神科医の見た赤穂事件 浅野内匠頭刃傷の秘密』
『寛政重修諸家譜』(続群書類従完成会)

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