1701年2月15日発行(第040号)
事件の背景をさぐる(2)
浅野内匠頭さん |
浅野内匠頭さんはとても几帳面であった |
浅野内匠頭さんは妻の実家の浅野長澄さんが元禄九(1696)年に饗応役を勤めたときの記録を借りて下調べをしている。また自分が以前勤めた時の記録も調べ、上野介さんに相談することがなかった。 そのため、上野介さんは気分を害することが多かったという。 |
史料(1) |
御内証帖迄御借用御下しらへ相調候付上野介殿江御伺被成候処、段々不宜御仕形共有之御不快被思召候事共多有之(「冷光君御伝記」) |
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浅野内匠頭さんはとても正義感があった |
以前饗応役を勤めた大名たちは内匠頭さんの御用人に「上野介さんは強欲なので、ご進物を度々贈るように」と勧めた。 そこで御用人は「度々その段を申し上げ」たが、内匠頭さんは勤めが「相い済み候上」はいくらでも贈るといって、形どおりの進物以外はしなかった。 |
史料(2) |
尤御同方強欲成御方故前々御勤被成候御衆前廉より御進物等度々有之由喜六・政右衛門御用人迄申出御用人共も度々其段申上候処、御馳走御用相済候上ニ而ハいか程も可被進候得共前廉度々御音物有之儀ハ如何敷被思召候旨ニ而御格式之御付届御音物ハ前廉被遣候得共 御品柄等詳ならす 外御音物等ハ無之(後略)(「冷光君御伝記」) |
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『土芥寇讎記』を使って浅野内匠頭さんを批判する人の引用 (1)無類の女好きで政治に興味を示さず (2)いい女を紹介すれば必ず出世させる |
学習院大学教授で、近世史の専門家で、私も多くの書物を読んだことがある大石慎三郎氏がいます。 大石氏は、『将軍と側用人の政治』(講談社現代文庫)のなかで、浅野内匠頭さんについて、次の様に書いています(71〜71P)。 「面白いことに、事件の起きる十年ほど前に幕府によって作られた『土芥寇讎記』 (幕府隠密を使って全国の大名の素行と領地の実態を調査したもの)を見ても、赤穂藩の浅野長姫の評価は最も低い部類に属する。無類の女好きで政治に興味を示さず、いい女を紹介すれば必ず出世させてくれる殿様という、惨憺たる評価を幕府の隠密から受けているのである」 |
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『土芥寇讎記』原文は浅野内匠頭さんをどう評価していたか (1・2)は大石慎三郎氏の指摘と同じ |
大石氏が排除した部分もあった (3)「智恵があって賢い」 (4)統治がいいので、家臣や領民も豊かである |
大学時代に、松島榮一氏と出会うまで、アンチ忠臣蔵で、よく活用したのが『土芥寇讎記』でした。大石慎三郎氏と同じ意見でした。 しかし、松島氏から「忠臣蔵は史料をして語らしめよ」ということを教わってからは、史料の原文を入手るようにしました。 『土芥寇讎記』を手にした時、「なんだこりゃ!!」と叫んだものです。 今回は、いつもお世話になっている「長蘿堂」さんの「ろんがいび:『土芥寇讎記』の浅野長矩評について」を参考にしています。 |
『土芥寇讎記』は、元禄3(1690)年頃に成立した幕府中枢部による諸大名の調査報告書といわれています。「長蘿堂」さんによれば、『土芥寇讎記』には、「評者」と、「評者」とは別人が書いた「謳歌」があるといいます。 史料(3)の「評者」は、大石氏慎三郎氏が排除した部分に「長矩は智恵があって賢い。家臣や領民へ統治がいいので、家臣も百姓も豊である」と書いています。 その後半は、大石氏が採用している部分です。「女色を好むことは切(強烈)である。そこで、よこしまなで曲がった諂(へつらい)をする者は、主君の気持を汲んで、美女を探し求めて差しだします。そのような者が出世する。主君の側女と縁のある者は、やがて石高を加増することを要求し、金銀を手にする者が多い。昼夜、閨門(寝室)で美女と戯れ、政治は幼少の時から成長した今まで、家老の好きなようにさせている」と書かれています。 大石慎三郎氏のような大学者が、意図的に、自説に都合のいい史料のみをつまみ食いして、浅野内匠頭を誹謗・中傷する理由がわかりません。政治的な思惑があるのでしょうか。 |
史料(3) |
長矩、智有テ利発也。家民ノ仕置モヨロシキ故ニ、士モ百姓モ豊也。女色好事、切也。故ニ奸曲ノ諂イ者、主君ノ好ム所ニ随テ、色能キ婦人ヲ捜シ求テ出ス輩、出頭立身ス。況ヤ、女縁ノ輩、時ヲ得テ禄ヲ貪リ、金銀ニ飽ク者多シ。昼夜閨門ニ有テ戯レ、政道ハ幼少ノ時ヨリ成長ノ今ニ至テ、家老之心ニ任ス。 (『土芥寇讎記』「評者」)。 |
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『土芥寇讎記』「謳歌」に大石内蔵助さんも登場 「不忠の臣では、政道も覚束ない」 この記録の4年後、内蔵助さんは備中松山城の城請取りに活躍 |
史料(4)の「謳歌」は、「浅野内匠頭の行跡は本文に載せていない。文武についての情報もないので、評価も出来ない」としています。 そういいながら、後半部分には「ただ女色に耽るという非難のみを挙げている。淫乱や無道は国を危うくし、家を滅ぼすという前触れである。敬うことがなければあってはならないことである。…次に、家老の政治も心もとなく、若年の主君が色に耽るを諌めることが出来ないほどの不忠の臣では、政道も覚束ない」とあります。 ここでは「女色についてのみ述べている」としています。女色については、柳沢吉保が妻を将軍綱吉に献上し、その日をお成り日としています。当時としては、なにも非難すべきことでななかったのです。 私としては、むしろ、それほど元気があって欲しかったと思うほどです。『土芥寇讎記』が書かれた元禄3(1690)年といえば、浅野内匠頭は24歳の壮年期です。元禄7年(1694)年、浅野内匠頭は28歳の若さで、弟大学(25歳)を養子にしています。 不忠の臣と書かれた家老は、大石内蔵助のことです。時に32歳です。 『土芥寇讎記』が書かれた4年後の元禄7年(1694)年、大石内蔵助は備中松山城の城請取りに活躍します。 |
史料(4) |
此将ノ行跡、本文ニ不載。文武之沙汰モナシ。故ニ無評。唯女色ニ耽ルノ難而已ヲ揚タリ。淫乱無道ハ傾国・家滅ノ瑞相、敬ズンバアルベカラズ。・・・次、家老ノ仕置モ無心許、若年ノ主君、色ニ耽ルヲ不諫程ノ不忠ノ臣ノ政道無覚束(『土芥寇讎記』「謳歌」)。 |
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『諫懲後正』(元禄14年頃)は浅野内匠頭さんをどう評価していたか(1) (1)気が小さく律儀で、智恵なくて短慮 (2)忠誠心あり、世間との付き合いもよく、日常生活もいい |
「長蘿堂」さんは、さらに、元禄14(1701)年頃に成立した『諫懲後正』を紹介しています。ここでも、「評者」と「愚評」があります。 史料(5)の「評者」には、「長矩は、文道を学ばず、武道を好む。気が小さくて律儀である。淳(まじめさ)直、つまり生真面目で義に背くことはない。家臣や領民を憐れむということはない。統治は厳しく、仁愛の気味もない。贅沢はしないが、領民からは収奪する。軍学や儒教の道を心がける。公儀への忠勤は手抜きせず、世間との付き合いも一生懸命にして、その気質は威張らず、智恵なく、短慮で、日常の行いはいいと云々」とあります。 ここでは、「女色」の文言はなく、忠誠心もあり、世間との付き合いもよく、日常生活もいいとあります。他方、気が小さく律儀で、智恵なくて短慮とあります。 |
史料(5) |
長矩、文道ヲ不学、武道ヲ好ム。生得小気ニシテ律儀ナリ。尤淳直ニシテ、非義ナシ。家士・民間ヲ憐ムト云ニハ非ズ。国家ノ政道厳シク、仁愛ノ気味ナシ。不奢シテ民ヲ貪リ、軍学儒道ヲ心掛アリ。公勤ヲ不怠、世間ノ出合専ラニテ、其気質ハタバリナク、智恵ナク、短慮ニシテ、行跡宜シト云々 (『諫懲後正』「評者」) |
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『諫懲後正』(元禄14年頃)は浅野内匠頭さんをどう評価していたか(2) (3)奢らず、忠誠心あり、世間との付き合いもよい、総合して”良い” (4)領民から収奪し、日常の行い・振舞いにも少々よくない (5)「長矩の行く末はとても危ぶまれる」と予言? |
史料(6)の「愚評」には、「主将の嗜むべき道は文である。文なき将は必ず行い・振舞いが疎かになる。浅野長矩は文道なく、智恵なく、気質は威張らず、小心で律儀とはいえ、短慮なれば、後々行い・振舞いについては覚束なくなるだろう。されども、長矩は、淳直(生真面目)にして、日常の行いは義に背くことがない。奢らず、忠誠心を重んじ、世間との付き合いもよいということならば、悪いとはいえない」とあります。 「先年奥方ノ下女ニ付テ…」については、下の「長蘿堂」さんのホームページを参照してください。 後半には、「元来、長矩はいい政治が少ないので、領民から収奪し、日常の行い・振舞いにも少々よくないことがあるのではないかと言える。そうなれば、長矩の行く末はとても危ぶまれる」とあります。刃傷事件を予想する書き方です。 「長蘿堂」さんは、刃傷松の廊下事件のあと付記したのであろうと書いています。 私も、前半の評価と、後半の評価が逆転しているので、そうではないかと思います。 |
史料(6) |
凡主将ノ可嗜ハ文道ナリ。文ナキ将必ズ所行ニ付テ疎カルベシ。況ヤ、此将文道ナク、智恵ナク、気ノハタバリナク、小気ニシテ律儀ナリト云ヘドモ、短慮ナレバ、後々所行ノ程覚束ナシトナリ。去ドモ長矩、淳直ニシテ、行跡不義ナク、不奢、公勤ヲ重ジ、世間ノ出合宜シクセラレルトナラバ、悪キニ非ズ。先年奥方ノ下女ニ付テ、少々非道ノ沙汰有之、其比専ラ世間ノ唱ヘ不宜、既ニ此家危キ事ナリト批判セシカドモ、何ンナク事治リヌ。元来長矩仁政少キ故、民ヲ貪リ、所行ニモ少々不宜アリシ歟ト云ヘリ。然レバ、此将行末トテモ覚束ナシトナリ(『諫懲後正』「愚評」)。 |
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学者・研究者の真摯な立場 (1)史料は全て提示する (2)史料の前では謙虚である |
私が一部関わった『古文書で読み解く忠臣蔵』(柏書房)では、『土芥寇讎記』をどう扱っているでしょうか(23P)。
◆内匠頭の性格 事件以前に全国の大名の評判を集めて書かれた史料がわずかに残っているが(『土芥寇讎記』)、それによると「短慮」だったことは間違いないようだ。他に「武道好み」「淳直」「好色」などと書かれているが、要するにごく普通の大名であったということだろう。為政者としては「政道覚束なし」「仁政少なく民を貪る」とあっていささか頼りないが、「威張ったり奢ったりもしない」ともある。事件さえなければ平凡な一大名として終ったと思われる。 史料を全て提示し、史料の前では謙虚である。これが、学者であり研究者の立場ではないでしょうか。 |
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『土芥寇讎記』を詳しく知りたい方は、下記のホームページを参照してください。 「長蘿堂」さんのホームページをご覧下さい(←クリック) |
出典 「冷光君御伝記」(赤穂市発行『忠臣蔵第三巻』) |