home back next

1701年2月15日発行(第041号)

忠臣蔵新聞

事件の背景をさぐる(3)

オベンチャラが出来ない内匠頭さん

オベンチャラが出来ない内匠頭さん
 史料(1)は、元禄16(1703)年に室鳩巣が書いた『赤穂義人録』の一部ですが、次のような指摘があります。
 上野介さんに指南を受けようとする大名は「多く賄賂を行ひて」機嫌を取っていました。
 一方、内匠頭さんの性格は「強硬」で、「自分も上野介殿も公務をしているのである。何も追従する必要はない」と公言しました。
 そこで二人の関係は大変気まずくなった。
史料(1)
 義央、官位ノ高キヲ以テ諸高家ノ上二居リ、京官至ル毎二未ダ嘗テ其ノ間二趨陪セズンバアラズ。コレヲ以テ、自ラソノ能二衿リ、人二驕ル。前時、事ヲ共ニスル者、ソノ指授ヲ利トシ、則チ多ク賄賂ヲ行ヒテ、以テ之ヲ誘フ。長矩人トナル強硬、与二屈下セズ。オモヘラク、己レ義央ト同ジク公事ヲ執ル。私二阿諛スベカラズト。未ダ嘗テ謁ヲ請ウテ問遣シテ、以テ其ノ歓ヲ取ラズ。故ヲ以テ甚ダ相善カラズ(『義人録』)

弟大学さんは兄長矩さんを
「短気でおこりっぽかった」と証言
 浅野内匠頭さんの弟の長広さんが後年旗本に取り立てられた時、伊勢貞丈さんに「兄長矩は短気でおこりっぽい人であった」と言っています。
 残念ながら、この件を浅野長広さんや伊勢貞丈さんに問い合わせましたが、不在で、確認出来ませんでした。伝聞資料としてお伝えします。

大高源五さんも母への手紙で
「御短慮」だっと告白
 史料(2)は、大高源五さんが討入り決定後に、母に出した手紙の一部です。
 この史料の前半に、大高源五さんはこのように書いています。
 「私が今から江戸へ下る決意をしましたのは、前からお話していましたように、一すじに殿様のお憤りを晴らしてさしあげ、浅野家の恥をすすぎたい一心からでございます。
 殿様は気が狂われたのではなく、上野介殿へお恨みがあったとのことでお切りつけなされたことですから、吉良上野介殿はまさしく「かたき」であります」
 その後、大高源五さんは、史料(2)で、主君浅野内匠頭が「短慮」であったことを書いています。
 「しかしながら、短慮で、時節といい、場所といい、大変なあやまちだったので、天下(将軍)のお憤りも深く、お仕置き(切腹)に仰せ付けられましたことへは、致し方ないことで、まったく、天下をお恨みすべきことではないので、お城は異議なく差し上げたのでございます」
史料(2)
 されとも御短慮にて時節と申、所と申ひとかたならぬ御不調法ゆへ、天下の御いきとほりふかく御仕置に仰せ付けられ候事に御座候へは、ちからおよひ申さぬ事まったく天下御恨み申し上ぐべき様も御座無きの義にれ候ゆへ、御城はしさいなくさしあけ申たる事に御座候(元禄15(1702)年9月5日)

吉良上野介さんを治療した栗崎道有医師の証言
「浅野さんと吉良さんは普段から相性が悪かった」
「浅野さんは、気短で、堪忍できないことがあったのか」
 史料(3)は、吉良上野介さんを治療した幕府の侍医である栗崎道有さんの「栗崎道有記録」の一部です。
 「年度当初、公家衆(勅使・院使)のご馳走人に任命された浅野内匠頭さんは、広島の浅野綱長殿の分家で石高は5万石か。
 その浅野さんは、兼ねて吉良さんとは挨拶(礼にかなったことばや動作)がよくなかった。特に度々伝奏屋敷にても、吉良さんは高家の年長(筆頭)で、内匠殿は年が若い。もっとも、浅野さんは、公家衆などへの挨拶なども未だ初めてなので、吉良さんを頼るといっても、とかく吉良さんは何となくいかめしい(近寄りがたい威厳を持っている)。そこで内匠さんは以前から思うことがあったらしい」
 「その席を逃しては堪忍ならざる事でもあったのか、内匠頭さんは気短な人であるように聞いています。吉良さんを見つけて小さ刀を抜いて眉間に切り付けました」
*解説1:相性が悪い場合といっても、対等な人間と権力の上下関係にある人間とでは、結果が全く異なります。浅野さんの命令する上司は吉良さんです。特に吉良さんは、将軍綱吉さんと側用人柳沢吉保さんと同じ権力側にいます。当然挨拶をしない浅野さんは徹底的に不利です。にも拘らず、浅野さんに挨拶をしないように追い込んだのは何故でしょう。
 浅野さんの性格が指摘されます。
 浅野さんを寄せ付けない吉良さんの性格が指摘されます。
 今後の解明が待たれるところです。
史料(3)
 年始公家衆御地(馳)走人浅野内匠頭、松平安芸守殿(広島藩主浅野綱長)家ノワカレ高五万石カ兼而吉良トアイサツ不宜、殊ニ度々伝奏屋敷ニても吉良ハ高家年老ノ人ニて、内匠殿ハ年若、尤公家衆抔へ挨拶等モイマタウイシキニヨリ吉良ヲ相頼ルトイヘトモ、トカク吉良何トヤランイカメシク内匠兼々存シヨラル由…其席ヲヲイテカンニンナラサル事ニヤ惣シテ内匠頭ハ気ミシカナル兼而人ノ由、吉良ヲ見付テチイサ刀ヲヌキ打ニミケンヲ切ル

幕府の公文書にみる証言
(1)諸大名が賄賂を贈るほど上野介さんは権力を持っていた
(2)内匠頭さんは賄賂を贈らなかったので憎まれた
(3)イジメがあったので、刃傷に及んだ
 史料(4)は、『常憲院殿御実紀』です。常憲院殿とは将軍徳川綱吉さんの法名です。つまり、綱吉さんの時代の幕府の公式記録ということになります。当然亡くなってから編纂されますので、後の編纂する人の主観やその時代の空気が反映されています。
 『常憲院殿御実紀』の「元禄一四年三月一四日条」にはどのように書かれているのでしょうか。
 「世に伝えられている所(世間の噂)では、吉良上野介さんは、歴代に天皇に対して高家職にあり、長年朝廷に儀式に関係してきたので、公(朝廷)(幕府)武の礼節典故を熟知精錬している人は、上野介さんの右に出る者はいません。
 そこで、名門や大大名の家でも、自分の考えを曲げたり、折ったりして、上野介さんの機嫌をとり、従って、その都度、教えを受けたりしています。そうなると、自然に、上野介さんは賄賂をむさぼったりして、吉良家は巨万の富を重ねているといいます。
 しかし、長矩さんは、機嫌をとったり、へつらうことをせず、この度、ご馳走役を任命されても、義央さんに財貨(金品)を贈らなかったので、義央さんは密かにこれを憎んで何事も長矩さんには教えなかったこともあって、長矩さんは時刻を間違ったり、礼節を失うことが多かったということがあったので、これを恨んで、かかること(刃傷)に及んだということである」
*解説2:世間の噂といえ、幕府の公式記録に、刃傷事件の原因を吉良さんのイジメと指摘しています。人の噂も45日(1カ月半)といいます。江戸時代を通じて「噂」が消えなかった理由を探り必要があります。
 私は、判官びいきとか、将軍綱吉さんと柳沢吉保さんの恐怖政治に、吉良上野介さんが参加していたことが背景にあると考えています。
 みなさんは、いかがでしょうか。
史料(4)
 世に伝ふる所は、吉良上野介義央歴朝当職にありて積年朝儀にあづかるにより公武の礼節典故を熟知精練すること、当時その右に出るものなし、よて名門大家の族もみな曲折してかれに阿順し毎事その教を受たり、されば賄賂をむさぼり其家巨万をかさねしとぞ、長矩は阿諛せず、こたび館伴奉りても義央に財貨をあたへざりしかば、義央ひそかにこれをにくみて何事も長矩にはつげしらせざりしほどに、長矩時刻を過ち礼節を失ふ事多かりしほどに、これをうらみかゝることに及びしとぞ
出典
「大高源五書状」(赤穂市発行『忠臣蔵第三巻』)

index home back next