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1701年3月14日発行(第042号)

忠臣蔵新聞

ドキュメント刃傷松の廊下

江戸城松の廊下(東京都立中央図書館)
(図C)(百楽天さん「白地に黒字」、●●が内匠頭さんらの所定の場所。作者「赤字」)
ドキュメンタリー刃傷松の廊下(口上)
 忠臣蔵新聞をアップして、約10年ほど前に、このページをアップしました。史料を提示して、大まかな口語訳をしていました。 
 最近(2007年12月)、いつもお世話になっている「百楽天」さんから、ある指摘がありました。
 それ以前にも、『梶川氏日記』について、原文に忠実な口語訳を依頼されるメールもたくさん頂いていました。
 或いは、刃傷事件の史料を恣意的に解釈する人がいることも分りました。
 そこで、たくさんの読者の依頼を受け、また、「百楽天」さんからの指摘を忠実に再現するため、ここに原文を忠実に口語訳することに致しました。

ドキュメンタリー刃傷松の廊下(1)
梶川さん、御台様の伝言を預かる
 御留守居番の梶川与惣兵衛さんは、今朝5ツ時(午前8時)、例の通り登城し、御広敷(大奥事務を取り扱う詰所。大奥に入るには御広敷の御錠口しかない)に参りました。「私儀(梶川与惣兵衛)、今日、御使に参るにつき御口上の趣(内容)も承るべく、又包み慰斗を受け取りたい」と申し込んだ所、岩尾殿(奥女中)が出てこられて、御台様(徳川綱吉の正室)よりの御口上を大体聞かされました。包慰斗をも渡されたので受け取りました。
 それより下男部屋(広敷内にある)へ右の包慰斗を持参した時、土屋勘助(御広敷番頭)さんに会いました。その時、土屋さんから「御留守居番の松平主計殿が申されるには、今日の御使をお勤めになられるについて何か伝えたいことがあったようです」と言われました。さらに「それについては、手紙を遣わすべきだと思っている」と聞かされました。
史料(1)
 今朝五時例之通登城御広敷江参候、拙者儀今日御使ニ参候ニ付御口上之趣も可承并包慰斗請取申度之段申込候処、岩尾殿御出候て御台様よりの御口上荒増被申聞候て包慰斗をも御渡し候故請取、夫より御下男部屋江右のし包を持参候時土屋勘助(御広敷番頭)に逢申候得ハ主計殿(御留守居番、松平近鎮)被申候ハ、今日御使御勤被成候由被仰候、其段手紙を遣し可申と存候旨申聞候、

ドキュメンタリー刃傷松の廊下(2)
梶川さん、「勅使らとの面会時間が早まる」を聞く
 「私はそのことについては心得ております」と言って、自分の部屋に帰り、刀を置いて、御留守居衆の部屋に参ると、御留守居番の松平主計殿がいうには、「先刻吉良上野介殿より”今日の御使の時間が早くなりました”ということを言ってきた」と言われましたので、私が「詳しく承りたい」と言ってそれより中の間へ参りました所、目付の多門伝八郎さんが居られたので、公家衆を尋ねましたが、居られませんでした。
 私が「それでは、殿上の間に居られるでしょうか」と言った所、多門さんは「もはや、公家衆は御休息の間へ参られています」というので、私は「それでは、大廊下には高家衆は居られるでしょうか」と申しますと、多門さんは「それはどうでしょう」と申されたので、私は「それでは大廊下へ参り、見てきます」と言い捨てて、大広間の後を通って参った所、坊主が2人やって来ました。
史料(2)
 拙者其段ハ相心得申候由を申自分部屋江参り刀を差置御留守居衆の部屋へ参候ヘハ主計殿御申にハ、先刻吉良殿より今日の御使の刻限早く相成候旨申来候と被申候故、委細承候と申て夫より中の間へ参候処、(目付)多門伝八(重共)被居候故公家衆を尋候得共被居不申、然らハ殿上之間ニ可被居候半哉と申候処、最早公家衆にハ御休息の間へ被参候由ニ付左候ハゝ大廊下ニハ高家衆被居可申哉と申候ヘハ、いかゝ可有哉と被申候間、然らハ大廊下へ参り見可申と申すてゝ大広間の後通を参候処、坊主両人参り候、

ドキュメンタリー刃傷松の廊下(3)
梶川さん、吉良上野介さんをあちこち探す
 1人は、大広間の御椽頬杉戸の内へ入りました。もう1人は、私たちの後ろの方へ参りました。さて大廊下の御椽の方、角柱の辺りより見ると、大広間に近い方の御障子際に浅野内匠頭長矩さんと伊達左京亮村豊さんが居られ、それより御白書院(桜間)の杉戸の手前に2〜3間おいて高家衆が大勢居られるように見えたので、私たちの後ろの方に来た坊主に、「吉良上野介殿を呼んでくれ」と申すと、坊主は行ってきて直ぐ立ち返り、坊主から「吉良殿は、ただ今、御老中方より御用の儀があり、(いずれ)参られるであろう」と聞かされました。
史料(3)
 一人ハ大広間の御椽頬杉戸の内へ入申候、一人ハ我等後の方へ参り申候、さて大廊下御椽の方角柱の辺より見やり候へは、大広間の方御障子際に内匠・左京(伊予吉田藩主伊達村豊)両人被居夫より御白書院の御杉戸の間二三間を置候て高家衆大勢被居候体見へ候間、右の坊主に吉良を呼被呉候様申候ヘハ参候て即立帰り、吉良殿にハ只今御老中方より御用之儀有之て被参候由申聞候、

ドキュメンタリー刃傷松の廊下(4)
梶川さん、内匠頭さんとも挨拶
梶川さん、上野介さんと一言二言会話中
 「それならば、内匠殿を呼んでくるように」と言いつけた所、直ぐに、内匠殿が参られたので、「私儀、今日、伝奏衆へ御台様よりの御使を勤めるので、諸事よろしくお頼みます」と申しました。
 内匠殿は「心得ました」と言って本座(所定の場所)に帰られました。
 その後、御白書院(桜間)の方を見ると、吉良殿が御白書院の方よりやって来られました。そこで、坊主に吉良殿を呼び遣わし、吉良殿に「その件について申す伝えるように」と話すと、吉良さんは「承知した」とこちらにやって来たので、私は、大広間に近い方に出て、角柱より6〜7間もある所で、吉良さんと出合い、互いに立ったままで、私が「今日、御使の時間が早くなりました」と一言二言言ったところ、
史料(4)
 左候ハゝ内匠殿を呼参候様申遣候処、則内匠殿被参候故拙者儀今日伝奏衆へ御台様よりの御使を相勤候間諸事宜様頼入由申、内匠殿心得候とて本座へ被帰候、其後御白書院の方を見候ヘハ吉良殿御白書院の方より来り被申候故又坊主ニ呼ニ遣し吉良殿へ其段申候ヘハ、承知の由にて此方へ被参候間拙者大広間の方へ出候て角柱より六七間もあるへき所にて双方より出合、互に立居候て今日御使の刻限早く相成候義を一言二言申候処、

ドキュメンタリー刃傷松の廊下(5)
内匠頭さん、上野介さんに刃傷
梶川さん、内匠頭さんを押しすくめる
 誰かが、吉良殿の後ろより「この間の遺恨覚えたるか」と声をかけて切り付けました。その太刀音は、強く聞こえましたが、後で聞くと思ったほどは切れず、浅手だったそうだ。
 私たちも驚き、見ると、それは御馳走人の内匠頭殿でした。上野介殿は、「これは」と言って後の方へ振り向かれました所を、また、内匠頭は、切り付けたので、上野介は私たちの方へ前に向き直って逃げようとした所を、さらに二太刀ほど切られました。
 上野介殿はそのままうつ向きに倒れられました。
 吉良殿が倒れたとほとんとうにびっくりした状態で、私と内匠頭との間は、二〜三足ほどだったので組み付いたように覚えています。その時、私の片手が内匠殿の小刀の鍔にあたったので、それと共に押し付けすくめました。

史料を再度、精読して感じたこと
(1)「誰哉らん」と「吉良殿の後ろより」の矛盾
(2)梶川さんは4カ所、外科医は2箇所の矛盾
(3)栗崎さんは「眉間が先で、背中が後」と証言→合理的?
 最近、有名な「誰哉らん吉良殿の後より此間の遣恨覚たるかと声を懸切付申候…驚き見候へは御馳走人の内匠頭殿也」という史料を精読する機会がありました。そこで発見したことがあります。
(1)梶川さんは、浅野さんと挨拶を交わします。
(2)梶川さんが大広間を背に立っています。吉良さんが白書院を背に立っています。
(3)浅野さんが所定の位置に座っています。
(4)浅野さんが吉良さんの後ろより切り付けた場合、浅野さんは、梶川さんの側を通って、吉良さんの背後に回りこんだことになります。この史料の不自然な部分です。
(5)この史料では、浅野さんが吉良さんの後ろより切り付けた場合、梶川さんは、浅野さんを正面から見たことになります。(1)で見たように、梶川さんは、さっき、浅野さんと挨拶を交わしたばかりです。(4)で見たように浅野さんは、梶川さんの側を通って、吉良さんの背後に回りこんでいる訳です。そういう状況からして「誰哉らん」というのも不自然な記録です。
(6)浅野さんは、梶川さんの側を通って、吉良さんの背後に回りこんでいます。非常に冷静で、計画的です。乱心説・一時的発症説とは矛盾しないのでしょうか。
(7)この史料では、@背中A額B背中二太刀となっています。他方、外科医である栗崎道有さんは@額(6針)A背中(3針)の2箇所を治療しています。さらに、道有さんは、眉間を切られた後、背中を切られたと書いています。詳しくは忠臣蔵新聞第44号をご覧下さい
 私は、こちらの方が自然な気がします。
 読者の皆さんは、いかがでしょうか。
史料(5)
 誰哉らん吉良殿の後より此間の遣恨覚たるかと声を懸切付申候其太刀音ハ強く聞候得共後に承候へは存の外切れ不申浅手にて有之候我等も驚き見候へは御馳走人の内匠頭殿也、上野介殿是ハとて後の方江ふりむき被申候処を又切付られ候故我等方前へむきて逃んとせられし所を又二太刀程切られ申候、上野介殿其侭うつむきに倒れ被申候吉良殿倒れ候と大方とたんにて、其間合ハ二足か三足程の事にて組付候様に覚申候右の節我等片手ハ内匠殿小刀の鍔にあたり候故、夫共に押付すくめ申候

内匠頭さんは大声で何度も訴える
「意趣あって刃傷に及んだ」と
 内匠殿を大広間の後の方へ大勢で取り囲んで連れて行きました。
 その時、内匠殿が言われるのは、「上野介の事については、この間からずーっと意趣があったので、殿中と申し、今日の事(勅使・院使の接待)のことに付き、恐れ入るとはいえ、是非に及ばず、討ち果たしたい理由があり」ということを、大広間より柳の間溜御廊下杉戸の外迄の間、何度も何度も繰り返し口にされれていました。
 刃傷事件のあった後なので、咳き込んで言われるので、ことのほか大声でした。高家衆はじめとりこ囲んで連れて行く途中、「もはや、事は済んた。お黙りなされよ。あまり高い声では、如何かと思う」と言われると、その後は言わなくなりました。
史料(6)
 内匠殿をハ大広間の後の方へ何も大勢にて取かこみ参り申候、其節内匠殿被申候は上野介事此間中意趣有之候故殿中と申今日の事旁恐入候得共不及申是非打果候由の事を、大広間より柳の間溜御廊下杉戸の外迄の内に、幾度も繰返■被申候、其節の事にてせき被申候故殊の外大音にて有之候、高家衆はしめ取かこみ参候中最早事済候間たまり被申候へ、余り高声にていかゝと被申候へハ其後は不被申候

抱きとめた梶川さんの反省
(1)「内匠殿の心中を同情します」
(2)「吉良殿を討ち果たせなかったことは無念だったろう」
 この時のことを後に思い出して考えると、内匠殿の心中を察し入る(同情する)。吉良殿を討ち留めされなかったことは、さぞさぞ無念であったろうと思います。誠に思いもかけない急変だったので、前後の深い考えも及ばず、上のような取り扱い(抱き止め)をしたことは是非も(仕方が)ありませんでした。
 とは言っても、これらのことは、一己(じぶんだけ)のことで、朋友への義のみです。上へ大してはかのような議論には及ばないのは勿論ですが、老婆心ながらあれこれと思いめぐらすことも多くあります。
史料(7)
 此時の事共後ニ存出し候に、内匠殿心中察入候、吉良殿を討留不被申候事嘸々無念に有しならんと存候、誠に不慮の急変故前後の不及思慮右のことく取扱候事無是非候、
 乍去是等の儀ハ一己の事にて朋友への義のミなり、上へ対してハかやうの義論に及ハぬハ勿論なれ共老婆心なから彼是と存めくらし候事も多く候


『忠臣蔵第一巻』の松の廊下(図A) 松の廊下(図B)

私が松の廊下(図B)を作成した経緯
 「吉良上野介と梶川与惣兵衛が話し合っている時、浅野内匠頭が吉良上野介の背後より切り付けた」ということは有名な話で、ほとんどの人は知っています。
 しかし、切り付けた内匠頭がどこに居たのかという説明はありませんでした。そこで、色々な本を調べた結果、赤穂市発行の『忠臣蔵第一巻』に”下之部屋”を図示した「江戸城本丸御殿松之廊下付近図」を発見しました。それが松の廊下(図A)です。
 史料(1)〜史料(5)をよく検討してみました。
(1)「御白書院の御杉戸の間二三間を置候て高家衆大勢被居候体見へ候間、右の坊主に吉良を呼被呉候様申候」を分析すると、白書院の杉戸の前に高家衆が並んでいたとすると、梶川は白書院にいたことになる。
(2)松の廊下(図C)角柱は()だけでなく、白書院の前の()にもある。
(3)「大広間の方御障子際に内匠・右京(伊予吉田藩主伊達村豊)両人被居」を分析すると、白書院の前の()の位置から見て、松の廊下(図A)の下之御屋敷は大広間の方にあたる。その障子際に内匠頭と田村右京太夫が控えていた。
 これに基づいて作成したのが松の廊下(図B)です。

私と「百楽天」さん、同じ土俵に上がる
 所が、最近になって、いつもお世話になっている「百楽天」さんから、「本座」は「下之部屋」ではなくて、「所定の場所」ではないですかというメールがありました。
(1)何度かメールでやり取りしたのですが、私の描いている松の廊下図の固定観念の方が強く、と「百楽天」さんがイメージしている松の廊下図をなかなか理解できませんでした。
(2)そこで、私は松の廊下(図C)をホームページ上にアップして、次のような提案をしました。
 「議論する時、同じ地図の方が便利だと思います。「百楽天」さんが提示された地図と、ここの地図と基本的に同じだと理解して、進めていっていいでしょうか。
(3)それに対して、「百楽天」さんから次のような返事が来ました。
 「ほぼ同じなので、赤穂朗史さん(作者のペンネーム)の絵図で話をすすめてもよいと思います。
(4)ここで議論する土俵が同じになったことになります。ネット社会の威力・魅力です。

私と「百楽天」さんとの議論の経緯
 松の廊下(図C)と史料(1)〜史料(5)を、お互い、参照しながら、何度も議論をしていきました。結論部分を掲載しました。
(1)まず私が、次のような質問をし、「百楽天」さんから次のような回答がありました。
*質問1:「御白書院の御杉戸の間二三間を置候て高家衆大勢被居候体見へ候間、右の坊主に吉良を呼被呉候様申候」を分析すると、白書院の杉戸の前に高家衆が並んでいたとすると、梶川は白書院にいたことになりませんか。如何でしょうか。
*回答1:梶川は、赤穂朗史さんの絵図に書き込まれた矢印のように、大広間の後ろ側にある杉戸(松之大廊下の終点)を経て大広間よりの角柱のところまで来て、松之大廊下始点の桜溜の杉戸のほうを見たのです。
 「御白書院の御杉戸」と書いていますが、その杉戸は松之大廊下始点で、杉戸を開けると「桜溜」(桜之間)。その向こうに白書院があるという構造です。
 このような書き方は古文書には多々あるので、読み間違いしないように注意が必要です。
*質問2:「御白書院の御杉戸の間二三間を置候て」は、「桜溜の杉戸から二三間(数m)手前に」と置き換えられていますが、その理由は何でしょうか。
*回答2:「御白書院の御杉戸」は上にも書いたとおり、松之大廊下始点で杉戸を開けたところの「桜溜」の向こう側に白書院がある。
 梶川は図の左の青の角柱()のところから見た様子を書いているので、「御白書院の御杉戸の間二三間を置候て」は、「桜溜の杉戸から二三間(数m)手前に」ということになります。
*質問3:もし、白書院の前の角柱()ならば、「下之部屋」は「大広間の方」に近い部屋と読めます。
*回答3:これ (史料としてのホームページ、作者注) には、大名が登城したときの殿中席(控え室)が書いてあります。
 徳川御三家およびのちの御三卿の殿中席は、「大廊下上之部屋」。加賀前田家などは、「大廊下下之部屋」となっていますね。
*質問4:角柱()というのは、白書院の前にはないでしょうか。角柱があるのか、ないのかが、この議論の最大のポイントだと思います。
*回答4:能舞台では、「目付柱」を角にあるので、「角柱」(すみばしら)とも称しています。
 同様に、松之大廊下の「角柱」は松之大廊下の終点、大広間の後ろ側にある杉戸から歩いて右折する右手角の柱のことです。
 右側、桜溜の北東の角の角柱()の位置からは、桜溜の杉戸があるために、その前に高家衆がいたとしても確認できません。
*質問5:これは史料にはない愚問ですが、大廊下は待機施設としても利用されていたのでしょうか。
*回答5:「待機施設」という目的ではなく、畳敷きの松之大廊下の所定の場所で御馳走人が待機していたということです。
 社長室の前の廊下で社長秘書が待機していた、というイメージです。

私と「百楽天」さんとの議論の結論
(1)以下の文章が今から約10年ほど前にホームページの内容です。 
 A勅使御馳走役の内匠頭さんが「心得候」と入って下の部屋に帰る。
(2)以下が今回(2008年1月14日)訂正した内容です。
 A勅使御馳走役の内匠頭さんが「心得候」と言って本座(「所定の場所」)に帰る。
(3)僅か1行に満たない4文字を5文字に変えただけです。しかし、その中味は非常に濃いものでした。
(4)多くの人が参加する「梶川頼照-Wikipedia」(←クリック)も、「下の部屋」説を採用しています。
いずれ、「所定の場所」になるでしょう。「学問・研究って、本当に楽しいですね!!」。
 こういう場を与えて頂いた「百楽天」さんに感謝すると共に、ネット社会の威力・魅力も改めて実感しました。

「百楽天」さんからの指摘で、さらに変更した部分
*いつもお世話になっている「百楽天」さんから「大奥御留守居」というのは間違いで、「御留守居番」ではないかというご意見がありました。
 私は、御留守居番を分りやすくするために「大奥御留守居」と表現していました。歴史辞書で確認をすると、確かに、正確な表現ではありませんでした。そこで、ご指摘の通り、「御留守居番」と訂正いたしました。ありがとうございました。
*参考1:「御留守居番」とは、「本丸留守居」ともいい、江戸幕府の職名です。老中の支配に属し、江戸城本丸の守衛、大奥に関することを担当しています。役高は1000石で、定員は5〜6人です。部下に与力6騎、同心40人が付属ししていました(山川出版社『日本史広辞典』)。
*参考2:「留守居」は、役高5000石で、大奥の取締り、関所女手形などを担当した(同上)
*参考3:梶川与惣兵衛は、浅野内匠頭を抱きとめた功で、500石加増され、1200石となったとありますから、「御留守居番」だったことが分ります(今になって)。
出展
「梶川氏日記」(赤穂市発行『忠臣蔵第三巻』)
凡例
 −史料原文は「おどり字」(「〈」の縦長の字)

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