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1702年3月14日発行夕刊(第044号)

忠臣蔵新聞

幕府の御典医栗崎道有さん
吉良上野介さんのカルテを発表

栗崎道有さんの記録
幕府の御典医である栗崎道有さんの証言(口上)
元禄十四巳三月十四日(東京本社)
 本社は、栗崎道有さんの証言全文を口語訳をする企画を立てました。
 以前、史料忠臣蔵を発行してまいりましたが、「役に立つ、タメになる」が、しかし「面白くない」という読者のお叱りがあり、「面白くて、役に立つ」という視点で忠臣蔵新聞を発行してまいりました。
 最近、読者から全文を口語訳して欲しいという要望が多数ありました。
 また、史料を恣意的に利用する人も出てまいりました。
 そこで、多くの人が利用して、忠臣蔵論争にも参加できやすいようにと、議論が対立している部分について、原文を提示し、全文を口語訳することにしました。そこはネット社会の威力・魅力です。大いに、議論に参加して、忠臣蔵の発展に寄与されんことを願っています。

幕府の御典医である栗崎道有さんの証言(T)
(1)「堪忍できない事情があったのか、眉間に切り付けました」
(2)「吉良さんは、二の太刀で背中を切られました」
(3)「その後、梶川与惣兵衛さんが浅野さんを取り押さえました」
 史料(T)は、吉良上野介さんを治療した幕府の御典医である栗崎道有さんの記録(『栗崎道有記録』)です。現場に立ち会った人しか伝えられない迫力のある報告です。忠実に再現します。
 「その席を逃しては堪忍ならざる事でもあったのか、内匠頭さんは気短な人であるように聞いています。吉良さんを見つけて小さ刀を抜いて眉間に切り付けました。
 烏帽子に当たって烏帽子の縁までで切り止まっていました。その時に、吉良さんは横うつむきになる所を、二の太刀で背中を切られました。これも刀の寸(長さ)が短く、内匠頭さん自身の気が焦っていたので刀先が下がり、漸く皮肉(表面)だけを長さは6寸(18センチ)余切られました。背中は傷は浅い。額の傷は骨にあたって少々深い。
 この時に、御留守居御番の梶川与惣兵衛さんという人は、以前から大奥の仕事で表の仕事をしない役柄でしたが、その時は奥方(御台様)の御用で聞き合わせのことがあり、この席に居合わせ、二の太刀を切り付けた所を与惣兵衛さんが内匠さんを組み止めました。
 それより吉良さんと浅野さんの2人を押し分け、内匠さんには大勢番人が付き、吉良さんは高家衆の部屋まで引き取られました」
史料(T)
 …其席ヲヲイテカンニンナラサル事ニヤ惣シテ内匠頭ハ気ミシカナル兼而人ノ由、吉良ヲ見付テチイサ刀ヲヌキ打ニミケンヲ切ル、ヱボシニアタリヱボシノフチマデニテ切止ル、時ニ吉良横ウッムキニナル所ヲ二ノタチニて背ヲ切ル、是モ刀ノ寸ハミシカク其身ハ気セキ太刀サキサガリ漸々皮肉ノ間マテ長サハ六寸余モ切レル、疵アサシ、ヒタイノ疵ハ骨ニアタリ少々疵深シ、時ニ御留守居御番梶川与三兵衛ト云人兼而表向へ出ザル役柄ナレトモ其節御奥方ノ御用聞合ノ事有之右ノ席へ居合セ、二ノ太刀切リ付ル所ヲ与三兵衛内匠ヲクミトムル、夫より双方押ワケ内匠ニハ大勢番人付、吉良ハ高家衆ノ部屋迄引取

幕府の御典医である栗崎道有さんの証言(U)
(1)「吉良さんの血がとまらない」
(2)「早々の登城せよ」
 史料(U)は、その続きです。
 「当日当番の本道方(内科)は津軽意三さん、外科は坂本養慶さんに、”まず血を止めて治療せよ”と大目付衆より指図があり、薬を用い治療しましたが、吉良さんの血も止まらず、段々元気がなくなってきました。そこで、老中の指図で、大目付の仙石(伯耆守久尚)さんが公家(高家)衆の畠山下総守(義寧)さんに言われたのは、”栗崎道有さんを早く招いて治療するようにせよ”という事だったので、畠山下総守さんより”急信”を封して、目付衆が私(栗崎)宅へその手紙を持って来たそうですが、私はその時、神田明神下の酒屋伊勢屋半七という者の癰腫(悪性のはれもの)を治療している最中の時でした。そこへ、急信を持って来られました。これを見ると、”ただ今、殿中で、吉良上野介さんが不慮(思いがけないこと)が起こり、手負(怪我)をしたので、大目付の仙石さんの指図により手紙を送る。早々に急いで登城するよう”という内容です」
史料(U)
 当番本道方ハ津軽意三、外科方ハ坂本養慶(古養庵子也)先血ヲ止メ療治可致ト大目付衆より指図有之薬ヲ用イ外治被致トイヘトモ血トマラス元気ウスクナル、依之御老中御指図ノ由ニて大目付仙石丹波守(伯耆守久尚)公家衆之内畠山下総守(義寧)へ被申候ハ、粟崎道有(正羽)ヲ早ク召テ療治可為致トノ事ニ付畠山下総守より急手紙上封シテ御小人目付衆私宅へ右之手紙持来ル之由、吾ハ其節神田明神下酒屋伊勢屋半七ト申者癰腫ヲ煩療治最中ノ時、宿より右ノ封シ状恵(急)キ持来ル、披見スルニ
 「只今於殿中吉良上野介不慮之儀有之手負ニ付、大目付仙石丹波守任差図申遣候間早々急キ登城可有之候、以上  
    三月十四日         畠山下総守   
    粟崎道有様」

幕府の御典医である栗崎道有さんの証言(V)
(1)「飲み薬と貼り薬を使ったが、出血は止まらず」
(2)「切り裂いた下着に薬を塗って、包帯にすると止血する」
 史料(V)です。
 「右(上)のような文面の急信が来ました。私はただ事ではないと思い、まだ大勢怪我している者もいたが、急いで登城して、大手門より入ろうとすると、人止めに合い、誰も出入り出来ないという非常時に、私の名を告げ、”御用の召しにて登城することに間違いない”と言って、いくつかの御門を通りました。中の御門(大手門)で小人衆が出迎え、”早く行くべき”使い(案内人)ということでした。
 直ぐに、まず、吉良殿の部屋をのぞき見分すると、内科・外科の当番の医者が付き添っていましたが、血が未だ止まらず、しきりに生(中途はんぱな)あくびをして、今にも死にそうなふうで反り返るかと思われるほどでした。
 早速、振薬を袋に入れて持参していたのを、先ず、振り出して飲ませました。傷を見ると、そのまま源氏の何んとか言う石灰の入った薬を少々(貼り)付け、その間も血がしきりに流れるので、幸い、吉良殿が着ていた下着の白帷子(麻の単衣)の袖を引き裂き、傷に薬を少々付けてその上を巻き包んでそのままおいていたら、血が止まりました。
 もっとも、薬を用いたせいか、吉良さんの元気も健やかに見えました。額の傷をよく手にて押す付け、家来に寄りかからせて置きました。それより殿中へ手を洗い、身を清めて出ました、もっとも、その間は少しの間でした」
史料(V)
 右ノコトクノ文言ニて封状来ル、吾タゝコトニ不存大勢手負モ有之哉先急キ登城致ス所ニ、大手ノ御門より人止メニテ誰ヲモ出入ヒシト相止ム時ニ、吾名ヲ申立御用召テ登 城致由申ニ付無相違御門々ヲ通ル、中ノ御門ニて御小人衆之出向イ早ク罷越ヘキノ使ノ由、扨直ニ先吉良殿部屋ヘノゾキ見分スルニ、内外当番ノ医師付添居被申トモ血イマタ不止ヒタトナマアクビ出テセツ死ソリ気モ付ヘキ哉ト思ハレ
○早速振薬ヲ袋ニ入持参先振り出シ用之、疵ヲ見ルニ其マゝ源氏ノウスヤウト哉ん石灰ノ入タル薬少々付、其間ヨリ血ヒタト流ルゝニヨリ幸吉良殿下着ノ白カタビラノ袖ヲ引サキ、疵ニ薬リヲ少々ノヘ付テ其上ヲ巻包置ト其マゝ血ハトマル也、尤薬ヲ用イ元気モスコヤカニ見ヘル、ヒタイノ疵ヲ能手ニテヲシ付家来ニヨリカゝラセ置、夫より殿中へ手洗身ヲキヨメテ罷出ル、尤其間シバラクモナシ

幕府の御典医である栗崎道有さんの証言(W)
(1)「大目付の仙石伯耆守さんの事後報告」
(2)「昼食を取りたいと、台所へ参る」
 史料(W)の内容です。
 「すぐ、焼火(焚き火)の間に出て、大目付の仙石伯耆守さんと対面して、”ただ今、吉良さんのいる部屋に直ぐに行き、血を止め、元気も健やかになるようしておきました。しかしながら、本治療をしたのではなく当座の元気を助け、血を止めたばかりです”と、まずこの治療内容を申し上げました。
 血を止め薬を用いている頃、高家衆の畠山下総守さんへも吉良さんのいる部屋で対面しました。とにかく元気を弱らせず、血を止めたいとの事だったので、以上述べたとおりにして、身を清め御殿へ出たということを高家その他の衆へも申し聞かせて、仙石伯耆守さんへ対談いたしました。
 その時、仙石伯耆守さんは奥へ行き、「そのことを申し上げる、その間、すばらくの間待つように」ということだったので、小目付衆に申し入れたのは、”私は今朝より家を出て、未だ昼食をしていません”ということでした。すると、”もっともである。早く台所へ行き、お料理を食べよ”という指図だったので、それに従って料理を食べに台所へ行きました。その時は、勤務時間なので料理も下げられてもいい時刻でした。
史料(W)
 即時ニ焼火ノ間ニ出テ大目付仙石丹波守へ対面シテ只今吉良部屋へ直ニ罷越血ヲ止メ元気ヲモスコヤカニ致置候也、乍然本療治致スニテハ無之当前ノ元気ヲタスケ血ヲ止メタルハカリニて先此趣申上ルナリ、血ヲ止メ薬ヲ用ル時分、高家衆畠山下総守へも吉良部屋ニテ対面、トニカク元気ヨハラス血ヲ止メタキトノ事ニ付早刻右ノ通り致テ身ヲキヨメ御殿へ罷出ノ旨高家其外ノ衆へも申聞テ丹波守へ対談致ス也、時ニ丹波守奥へ其段御老中へ被申上ノ由ナリ、其間少マコレアルニ付テ、小目付衆へ申入候ハ、拙者ハ早朝より他出イマタ昼ノシタゝメモ不致ト云ニ、尤左モ有之ハ早ク御台所へ罷越御料理タベヨトノ差図ニマカセ御料理ヲタヘニ御台所へ罷越、其節ハ御番相勤ノ時節故御料理等モ被下之能ノ時節也

幕府の御典医である栗崎道有さんの証言(X)
(1)「吉良さんの生あくびは、8時間以上食事をしていない結果」
(2)「自分の家来が食べるといって、台所役人に言い訳」
 史料(X)です。
 「実を言うと、私たちが食事を食べたいのではありません。上野介さんがしきりに生あくびをして、元気が弱く見えるのを考えると、3月14日の朝は六ツ時分(午前6時頃)に着た装束のまま登城しているので、傷を負い、私が登城するまでの時間を考えると四ツ時(8時間)ほどの間食事をしていないことになる。そうはいっても、その節は分けて清穢などを勤める役人も自他を大切に慎む時節柄です。
 しかしそうはいっても、当の病人の事なので、坊主衆から、私の入用だと言って、広き紙を2〜3枚もらって、その中へ台所の食をもらって包んでいる時に、台所の目付衆が”それを何とする”と尋ねられたので、私は”私たちは早朝より家を出て、侍・小者の2人は部屋へ残して、その他の者は私の家へ帰し、支度が済んだという代わりの者がやって来ました。しかし早朝より出てきたので、食事をそっと紙に包んで部屋に持参するのだ”と言えば、目付衆は”もっともだ””それならば、こちらにある余った御食を遣わそう”と言ってくれました。私は”それには及びません”と言って、箸二膳を懐中に入れて、台所を引き上げ、焼火(焚き火)の間へ出る時に…」
*解説1:名医とは、栗崎道有さんをいうのでしょうか。「生あくび」の症状を長時間食事を取っていないと診断し、その食事を得るには「ウソも方便」を使う。
史料(X)
 一 吾等(ワレラ)喰事ヲタベタキニアラズ、上野介ヒタトナマアクヒ出テ元気ヨハク見ルヲ考ルニ、其朝ハ六時分ニモシタゝメ致サレシヤウゾクニて登城ノ事ナレハ、疵ヲ負イ我等登城マテ時刻ヲ考ルニ四時程ノ間無飯ナリ、シカレトモ其節ハ別而御清穢等ヲ勤役ノ面々モ我人大切ニ慎ム時節柄、然トモ指当ル病人ノ事故ニ御坊主衆ヲ以我等ノ入用ノ由ニて広キ紙ヲ二三枚モライ其中へ御台所ノ食ヲ申請ケ包時ニ、御台所目付衆何ヲ致スト尋ラルゝニ付吾申ハ、我等ハ早朝より宿宅ヲ出テ侍・小者両人ハ部ヤヘ残シヲキ其外ハ私宅へ返シ支度相済申代り之者可罷出ナリ、併早朝より出タル事故御食ヲソト紙ニ包部ヤヘ持参致ストイヘハ目付衆、尤ナリ、然ハ此方よりアマリタル御食ヲ可遣トノ事、夫ニハ及ハサル由申テ箸二膳懐中シテ御台所ヲ立退テ焼火(タキビ)ノ間へ出ルトキニ、

幕府の御典医である栗崎道有さんの証言(Y)
(1)「”吉良さんの治療から幕府は手を引く”と言われた」
(2)「上野介さんの個人的な依頼で、治療を担当した」
 史料(Y)です。
 「大目付の仙石伯耆守さんが言うには、私に対して、”先刻は公儀(幕府)より私(栗崎道有さん)たちに吉良上野介さんの治療するよう命じたところであるが、これからは治療する必要はなくなった。しかし上野介さん並びに高家衆が、幸い栗崎道有さんがやって来て元気をつけ、血も止めてくれたことなので、病人の願いや高家衆の中で栗崎道有さんにこれからも治療を続けてほしいということならば、その段、老中への申し上げてよう”と仙石伯耆守さんが申されました。
 そこで、私は、高家衆の立会いで、上野介さんにその旨を申し聞かせると、上野介さんが申すには、”道有さんが来られて、血を止め、それゆえ、ただ今、元気もよくなりました。その上は、お願いして、道有さんに治療を続けて欲しい”と言い、次に通りに、”旁以道有療治願入”と高家衆中へも申されました。
 そこで、栗崎道有さんは、仙石伯耆守さんに伝え、伯耆守さんも老中に伝えると、老中からは”勝手次第、弥々道有の治療を請けることはしかるべし”とのことでした。そこで、道有さんは、高家衆の畠山下総守さんらと申し合わせました。
 ”上野介さんら一同に治療を頼まれたのだから、私(栗崎)が治療致すべきなので、大目付の仙石伯耆守さんへもその旨申し達した上で”と言って、殿中へ行き、仙石伯耆守さんに会い、”高家衆や上野介さんが頼んだので、私が治療するようになりました。そのことを老中にも申し上げて欲しい”と言うと、”もっともである”と言われました。
 それより、吉良さんのいる部屋に行き、当番の内科・外科の医者へ私たちが申し入れたことは、”今までは当番ゆえ、津軽意三さん・坂本養慶さんのお2人が付き添うのはもっともです。さて、高家衆や上野介殿が私たちに治療を頼みました。その点、大目付の仙石伯耆守さんを通してご老中へも申し上げ、その上で私に治療せよと申されました。しからば、外科の坂本養慶老はお引取り願いたい、又他の御用もあるべきことも分らないので、津軽意三老は内科のことなので、治療を一緒にしていただきたい。その内、病人の吉良さんがどうなるかも分らないので、太儀(めんどう)ではあるが、立ち会って、私たちの治療している間、ご見分を願いたい”と申し入れました。坂本養慶さんは引揚げ、それより私の治療となりました」
*解説2:浅野内匠頭の刃傷を乱心と主張する人がいます。しかし、栗崎道有さんの記録を見る限り、幕府の決定が公傷扱いから私傷扱いに変わっています。傷は2箇所であることが分ります。

専門家の渡辺世祐氏が「当時の規定」を証言
(1)「乱心→被害者には、幕府が治療に責任を持つ」
(2)「意趣→被害者は自ら治療に責任を持つ」
 東京大学史料編纂官として長年在職していた渡辺世祐氏が心血を注ぎ、10年の歳月をかけて完成した『正史赤穂義士』(光和堂、1975年刊)という書物があります。
 そこには次のような重要な記述があります。
 「幕府では…刃傷の場合一方が乱心であった時には、負傷したものの治療は幕府が責任を持たなければならぬ。また乱心でなく、両方意趣があって刃傷に及んだ場合には相対的の手落であるから、負傷者は自分勝手にその手当をすべきであるとの昔からの定がある」
 この規定によれば、幕府は治療から手を引いている訳だから、この刃傷事件を「乱心でなく相対的な手落ち」と裁定していることが分ります。
 上の内容をまとめると、最初の幕府の態度です。
氏名 吉良上野介義央 診察日 元禄14年3月14日 扱い 労災
 次は、態度を変更した幕府の決定です。
吉良上野介義央 診察日 元禄14年3月14日 扱い 自費
史料(Y)
 大目付丹波守被申聞候ハ、先刻ハ公儀より我等へ吉良療治被仰付之沙汰ニ有之処ニ、只今ハ療治被仰付之沙汰ニハ不及之由、併上野介并ニ同役衆幸道有罷出元気ヲモツヨメ血モ止メ置タル事ナレハ、病人ノ願同役中道有外治ニモ被致度トノ事ニ候ハゝ其段御老中へも可申上候由丹州被申聞、
 依之高家衆立合上野介へ右ノ旨被申聞処ニ上野介被申ハ、道有参リ血ヲ止メ夫故只今元気モ余程能ナル上ハ願テモ道有外治請度申候ニ各左ノ通リ旁以道有療治願入之由同役中へ被申ニヨリ
 其上丹州へ被申達、御老中モ勝手次第弥道有外治ヲ被請可然トノ事ニ付、同役下総守各申合、
 尤上野介一同ニ外治相頼之由ニ付、左候ハヽ拙者療治可致候間丹州へも其旨申達候テノ上ト申入殿中へ罷出仙石丹州へ逢候而、右同役中上野介相頼ニ付拙者療治致候段御老中へも御申上候ヘト申入尤ノ由ニ付
 夫ヨリ吉良部ヤヘ参り当番内外之医師衆へ我等申入ハ、只今迄ハ御当番故御両人御付添之儀御尤ニ候、扱御同役(高家)中第一上野介殿我等外療相頼ニ付、其段大目付仙石丹州ヲ以御老中方へも申上、此上ハ拙者外科致シ申ニて候、然ハ御外科養慶老ハ御引取、又外之御用等も若可有之事モ難斗外治意三老ハ先内科ノ事ニ候間療治相仕廻申内ハ病人何程ニ可有之モシレカタク候間、乍御太儀御立合我等療治候間御見分候様ニと申入養慶ハカヘシ夫より吾カ療治ニナル

幕府の御典医である栗崎道有さんの証言(Z)
(1)「傷を調べて、手当てをしました」
(2)「湯漬けを食べると、すっかり元気になりました」
 史料(Z)です。
 「治療について。額は斜めに眉の上の骨が切れていました。傷の長さは3寸5〜6分(11センチ)で、熱湯で温めて洗い、小針小糸で6針で縫い、直ぐに薄め茶(抹茶の量を少なくしたおウス)を付け、傷口にも薬を貼り付けました。
 背中の傷は浅いのですが、それでも3針縫い、仕掛け薬を傷口に貼り付けました。巻木綿は、幸い、吉良さんの下着の白帷子を引き裂いて、作りました。そして、それをずいぶん手際よく巻き包みました」。
 栗崎道有さんが調べた傷の程度と、その手当を下記にまとめました。
傷の程度 手  当
額・背中より出血 血止め薬にて手当
額に長さ11センチの切り傷で、骨まで達する 熱湯で温めて洗い、六針縫い、薬をつける
背中の傷は浅い 三針縫い、薬をつける
 「さて、部屋中の血に染まった衣類を吉良さんの挟箱(着替えを入れる箱)に入れさせました。畳へも方々に血が流れて汚れて見える物を吉良さんの家来に言って掃除させました。何があったのかと殿中より役人衆がこちらに来られ、穢れた状態で御座席へも出られ難いので、ずいぶん、部屋をむさからぬ様にと私たちも掃除しました。
 それで吉良さんの気を鎮め、湯呑所より湯を取寄せ、茶碗に食(ご飯)を入れ、湯漬けにして、焼き塩を少々求めて、二椀湯漬けにこれを使いました。すると、一入(ひとしお)元気さが元のように見えました。今まで言ってきたあくびが出たり、草臥(疲れ)が見えたのは、血が出たばかりでなく、早朝より出仕して、胃の気が弱くなっていると考えて、あの食(ご飯)を求めたのです。台所で手負いの病人に使うと言っては、穢になると思って台所の目付衆がくれないこともあると思い、今まで言ったようにして食を求めて使ったのです」
史料(Z)
一 治方ヒタイスチカイマミヤイノ上ノ骨切レル、疵ノ長サ三寸五六部熱湯ニテアタゝメ洗小針小糸ニて六針縫直ニウスメチヤヲ付フタニモ薬リヲ付ル、背疵浅シ、然トモ三針縫仕掛ケ薬右同断也、巻木綿ハ幸下着ノ白帷子ヲ引サキ随分手キワ能巻包置テ、
 扱部屋中血ニナリタル衣類ヲ吉良挟箱へ入サセ畳ヘモ方々血流レケカラハシク見ル程ノ物ヲ吉良家来ニ申付テソウヂ致サセ、何様ノ事有之殿中より役人衆是へ被参穢ノ体ニて御座席ヘモ被出カタク可有之間、随分部屋ムサカラヌ様ニと我等トモソウヂヲ致シ
 夫より吉良気ヲシツメ湯呑所より湯ヲ取寄茶碗ニ食ヲ入湯漬ニ〆焼塩少々相求二碗湯漬ヲ用之ト一入元気如(衍)常ノコトクニ見ヘル也、右ニ云ヒタトアクビ出草臥相見ルハ血ノ出ハシリタルハカリニて無之、早朝より罷出胃ノ気ヨハク成故ト考彼ノ食ヲモトム、御台所ニて病人手負ニ用ル申テハ穢ニモナルヘキヤ御同所目付衆クレ被申間敷事モ可有之ト思ヒ、右ノ通リニて食ヲ求テ用之也

幕府の御典医である栗崎道有さんの証言([)
(1)「最初は、幕府は内匠頭さんを乱心扱いでした」
(2)「内匠頭さんは、”我慢が出来ないことがあった”と証言」
(3)「上野介さんは、”意旨の覚えはない”と証言」
(4)「その結果、幕府は”乱心ではない”と判断」
(5)「その結果、幕府は、治療から手を引きました」
 史料([)です。
 「怪我をした最初の内は、老中たちは”内匠頭乱心にて吉良を切る”という判断でした。この判断により治療については、吉良さんは高家衆に色々と指図する役人なので、血も止まらず、元気も弱く見える。それでは、栗崎道有さんを呼び出し、治療をするよう判断したと聞こえました。
 そういう所へ、取調べに当たっていた役人が、内匠さんの口上をお聞きなられた所、”乱心にあらず、即座に何とも堪忍が出来ない仕合(勝負・なりゆき)だったので、御座席を穢し無調法(迷惑)をお掛けしたことは申し上げようもありません”という訳で、どうしてどうして乱気には見えませんでしたと証言しました。
 さて、吉良さんの尋問がなされ、吉良さんに”以前より、意旨の覚えはあるか”とのこと、吉良さんは”以前より、意旨の覚えはありません”と答えました。
 これによって、乱気の判断にに至らず、そこで、公儀(幕府)より私たちに、”治療するという指示はなくなった。しかし、道有さんがやって来て出血を止め、元気も強めるよう治療した上は、吉良さんの願いや高家衆が頼む場合は、道有さんが引き続き治療することは勝手次第という老中よりの仰せがあった”ので、いままで通り私が治療することになりました」
*解説3:栗崎道有さんの記録では、幕府が乱心説という決定を破棄して、遺恨説を採用していることが分ります。乱心説の入り込む余地はありません
史料([)
一 手負初ノ内ハ御老中方ニてハ内匠頭乱心ニて吉良ヲ切ルノ沙汰、依之療治之儀吉良ハ公家衆へ何角指行ノ役人ナレハ血モ不止元気モ御ハク見ル、然ハ道有ヲ呼上ケ療治被仰付之沙汰ト相聞ヘ、
 然所ニ其中ケ場ヘナリテ内匠口上之趣ヲ御聞被成候所ニ、乱心ニアラス即座ニ何トモカンニンノ不成仕合故御座席ヲ穢カシ無調法ノ段可申上様無之ノ訳ケニテ中々乱気ニ見ヘス
 扨吉良へ御尋有之ハ兼而意旨覚有之カトノ事、吉良ハ曽而意旨覚無之トノ事ナリ、
 依之テ乱気ノ沙汰ニ不及ニ付公儀より吾へ療治被 仰付ノ沙汰ニ無之也、然トモ道有罷出血ヲ止メ元気ヲモツヨメ置上ハ其身ノ願同役中ノ相頼ニテ道有療治勝手次第ト御老中より被仰ニ付右云通り吾外療ニナル

幕府の御典医である栗崎道有さんの証言(\)
(1)「午後4時前、吉良さんは自宅に帰りました」
(2)「私も伝奏屋敷はさけ、吉良邸に参りました」
 史料(\)です。
 「その刻限は、八ツ半(午後3時)過ぎの七ツ(午後4時)前に、老中より言われたことは、”吉良さんの事はまず家に帰り、よく養生するように”との仰せだったので、先ほど迎えの者が駕籠を取寄せました。そこへ、目付の中嶋彦右衛門という人が私に言われるには、”ただ今吉良さんが本宅に帰るというので平川門から出ました”と。
 そこで、平川門を出るとき、彦右衛門さんが言われるのは、”吉良宅へ行くのはどの道を通るのか”と私に尋ねられたので、私は”伝奏屋敷前を通る”と言いますと、彦右衛門さんは”いや、少々遠くても伝奏屋敷は避けて行った方がいい”と言われるので、私は”思い当たる節がある、誠に伝奏屋敷へは浅野内匠頭の家来がたくさん上へ下への騒ぎになっている、若し家来どもが破れかぶれの狼藉を働くかは分らない”。これにより目付も付き添えようとの儀はもっともである。彦右衛門さんもその考えで、鎗持なども自分の側を離れないように鎗をも持って行くべきとの事だったので、私もそのつもりです。
 それゆえ、御徒目付・小人目付も大勢前後に配置して送ってくれました。これにより常盤橋前より銭亀橋を通り、呉服橋前の吉良邸裏門より吉良邸に入りました。常盤橋の辺より彦右衛門は馬に乗り、私たちも乗り物に乗り、窓をあけ、時々出ては病人へ気をつけ、問題なく吉良邸に着きました。
 さて、吉良邸へは、親類衆をはじめ心安き近づきの衆、上杉綱憲弾正殿より大勢の家来が配置され、本道(内科)衆も2〜3人見えました。
史料(\)
 其刻限早八半過七前ニ罷成時ニ御老中より被仰出ハ、吉良事ハ先宅へ帰リ能養生可致トノ被 仰出ニ付先達テ迎ノ者乗物モ取寄セ有之、然所ニ御目付中嶋彦右衛門ト云人吾へ被申聞候、只今吉良ノ本宅へ罷帰ルニ付平川口より罷出ルナリ
 扨平川口ヲ出ル時彦右被申ハ、吉良宅へ参ルハ何レノ道通リ可然ト吾へ尋ラルニ、伝奏屋敷前通リ可然ト申時ニ、彦右イヤ願ハ少々遠クトモ伝奏屋敷ノ方ヲ相除キ可参トノ事ヲ被申ニ付テ我存当ル、誠ニ伝奏屋敷ヘハ浅野内匠頭家来ミチテ上下メツタニサワキ罷有ナリ、若家来(ライ)トモ事ヲヤフリ何程ノロウゼキカナ可致モ難斗、依之御目付モ御付添之儀御尤ト存彦右モ其心得ニて鑓持ナトヘモ自分ノ側ハナレザル様ニ鑓ヲモ持可参トノ事ニ付、吾モ其心付ナリ、
 夫故御徒目付・御小人目付モ大勢前後ニ心ヲ付相ヲクルナリ、依之トキワ橋前より銭カメ橋通リ呉服橋前吉良裏門より宅へ入ル、トキワ橋ノ辺より彦右モ馬乗、我等モ乗物ニノリマトヲ明ケ折々出テ病人ヘ気ヲ付無別条本宅へ着致スナリ、
 扨吉良宅ヘハ親類衆始メ其外心安キ近付之衆上杉弾正殿(米沢藩主綱憲)より大勢ノ家来付被置、本道衆モ二三人モ相見へ

幕府の御典医である栗崎道有さんの証言(])
(1)「上杉本家からも、治療の依頼がありました」
(2)「吉良さんは、浅野家臣の仕返しを恐れていました」
(3)「上杉本家から付き人が派遣されていました」
(4)「本所へ屋敷代え、これが運の境目でしょうか」
 史料(])です。
 1月14日夜五ツ時(午後8時)頃、吉良方へ幕府からの仰せがあり、内匠頭さんは無調法につき切腹が命じられ、吉良さんへはお構いないのでよく養生するようにとの仰せがありました。
 1月15日朝、上杉弾正殿より使者があり、上野介さんの手傷(怪我)については弥々精を出し治療するよう依頼がありました。さて、外科の方便(方法)については何も変わることもなく、面部(額)の傷はあまり目立たないように心がけ治療いたしましたが、吉良さんは60歳になる人ですが、以前から達者な証拠がある人なので、傷は14〜15日も経つと全快しました。
 然れども、天下に広まった噂なので、手傷も重く申され、30〜40日も毎日往診に行きました。1〜2カ月過ぎて、高家のお役辞任の願いを申し上げられ、願いの通りお役ご免となりました。
 それより隠居(家督相続)の願いもこれまた早速相すみ、気楽になられました。しかし、内心には内匠さんの家来が鬱憤を晴らしに来るのではないかと、ああこう気味悪がって、ずーっと用心していました。上杉家よりも付け人が昼夜やって来て、一日中、吉良邸に詰めていました。家来も数人も見えました。
 その秋の頃でしょうか、本所二ツ目の方へ屋敷代えになりました。これにより、段々、運の弱くなる時節というのでしょうか。
 さて、私へはその後、特別の懇意を請け、度々使いを寄こされ、時々、往診をするように頼まれましたので、50日〜60日に一度は往診しました。もっとも全快の時には上杉家よりはじめ吉良さんの悴の吉良左兵衛義周さんや吉良さんの奥方、その他の方々から謝礼を非常に多く頂きました。
*解説4:吉良上野介さんは、無防備であった。そこを集団で殺害した赤穂浪士は残虐・非道であったと主張する人がいます。栗崎道有さんの記録では、吉良さんは赤穂浪士の鬱憤晴らしに怯え上杉家は付き人を派遣していることが分ります。
史料(])
 同日夜五時分吉良方へ被仰渡ハ内匠頭無調法ニ付切腹被仰付吉良ヘハ御構無之間能養生可致之旨被仰渡也、
 翌朝上杉弾正殿より以使者ヲ上野介手疵弥情(精)ヲ出シ療治相頼之旨申来ル、扱外治方便(テタテ)何ノカワル事モ無之、面部ノ疵随分疵モ目立見へ不申様ニ心カケ療致ス所ニ、其身六十歳ニ及人ナレトモ兼而達者実証ナル人ニて疵十四五日ニスキト平愈スル、
 然トモ天下流布沙汰ニ及ノ故手疵モ重ク申ナシ三四十日モ毎日見廻一両月過ヘテ御役ノ願申上ラレ願ノ通り御免、
 夫より隠居ノ願是又早速相済気楽クニハナラレ、然トモ内心ニハ内匠家来ウッフンノハラサンカトカクニ気味悪敷兼々用心、上杉よりモ附人昼夜罷有身上ヨリハ昼夜相詰ル、家来モ数人相見へ
 其秋ノ比カ本所二ツ目ノ方へ屋敷替へ有之、是段々運ノヨハクナルノ時節ニ有カ、扨吾ヘハ其後別而懇意度々使ヲ越被申折々見廻クレ候様ニ相頼来ル故、五六十日ニ一度程ツゝハ見廻候也、尤本腹平愈ノ時節ハ上杉より初メ吉良世悴左兵衛(義周)・上野内室其外夫々より射(謝)礼余程多ク受ル也
出展
「栗崎道有記録」(赤穂市発行『忠臣蔵第三巻』)

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