home back next

1701(元禄14)年3月14日発行(第064号)

忠臣蔵新聞

改ざんされた?
内匠頭さんの意味不明の遺言

切腹に立ち会った片岡源五右衛門さん
遺体引き取りの書状で駆け付けた不思議?
−切腹を見届けた浅野上屋敷に引き上げた?−

浅野内匠頭さん が内匠頭さんが切腹した場所 片岡源五衛門さん
意味不明の遺言は田村家の改ざんか?
内匠頭さんが手紙を所望したが断られる
口上を覚書にして片岡源五右衛門さんに渡す
 ここでも田村家の長岡さんに登場願うことになる。最近どうも多門さんの発言には個人的な感情が強く出ているようで、どのマスコミ担当者も裏付けが必要となっている。
 長岡さんは次のように報道陣に説明した。
 今日内匠頭さんを受け取ったが、そのとき田村家の家臣に次のように言われた。「家来に手紙を出したいがよろしいか」。
 私が「それについては幕府に伺わないと出来ない」と返事をすると、「それならば家来の片岡源五右衛門と磯田七郎左衛門という者に 『このことについては以前知らせるべきであったが、今日やむを得ないことになって知らせなかった。不思議に思うだろう』という口上を伝えたい」と言いました。
史料原文
一 今日内匠請取候以後番人江被申候は、家来方江手紙遣し度候、苦間敷候哉と之儀故其段は伺不申候而は不罷成候よし致挨拶候、左候ハヽ家来田中(ママ)源五左衛門・磯田七郎左衛門と申者江 此段兼て為知可申候へ共今日不得止事候故為知不申候、不審ニ可存候 右之通口上ニて申遣度よし被申候故、覚書ニ致し御目付衆も被参候而申談 
 右書付は大学家来江為見候而渡申候

内匠頭さんの遺言の意味不明を考える
 1つは内匠頭さんが幕府や田村家の目に触れるをの恐れてその通り言ったと言う説がある。源五右衛門さんら日頃内匠頭さんの側近くに仕えた者なら大体推測がつくというのである。
 もう1つは幕府や田村家のことを批判した文面であったため、田村家の長岡さんらが幕府の役人と相談して、あるいは独断で改ざんしたという説である。
 いずれにしても今後の史料の発掘や研究が必要である。

いつも処刑は残酷である
首を差し上げ、検使に見せる
 介錯人の磯田さんが打ち落とした内匠頭さんの首を差し上げ、検使に見せた。
史料原文
(略)介錯御徒目付之内磯田武太夫則相仕舞首を差揚検使江見之(略)
出典
「一関藩家来長岡七郎兵衛記録」(赤穂市発行『忠臣蔵第三巻』)

index home back next