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1701(元禄14)年3月15日発行(第067号)

忠臣蔵新聞

正使庄田さんと副使伝八郎さん
それぞれ異なった報告

報告に対し、「柳沢さんは今も江戸城に待機しておられる
遅くなっては」ということで明日になる。

江戸城

切腹後、庄田さんら全員が引き上げる

 切腹も済み、大目付庄田さんら全ての役人が引き上げました。

史料原文

一 右相済即刻庄田下総守を始御役人中不残被罷帰
出典
「一関藩家来長岡七郎兵衛記録」(赤穂市発行『忠臣蔵第三巻』)

庄田さんは無事終了と報告、
伝八郎さんは切腹場所が大変粗略であったと報告、
「執政の柳沢さんが今も江戸城に待機しておられる。
遅くなっては」ということで、明日ということになる

 老中の秋元喬朝さんと若年寄の加藤明英さんの前で、大目付の庄田安利さんが「滞りなく
内匠頭さんの切腹を見届けました」と報告しました。
 目付の多門さんらが口をそろえて、内匠頭さんの切腹の場所について私たちは絶対に納得
できなかので、その様に申し出た。庄田さんは『さっき絵図面によって承知している』という。そ
のうえ言い争いになるので一通り意見をいって切腹も終わったが、ことのほか粗略の扱いにつ
き、一通り申し上げたが、夜も更け先刻より柳沢さんも退出せず待っているので、将軍に申し
上げるにはあまりにも遅くなるので明日登城して申し上げなさいということになった。
史料原文
 (略)秋元但馬守殿若年寄衆ニは加藤越中守殿列席ニ而御逢有之、大目付庄田下総守より
申上候ニは、無滞内匠頭切腹見届候趣被申上候ニ付、多門伝八郎・大久保権右衛門口を揃
へ申上候ニは、今日内匠頭切腹之場所私とも心底ニ不応候ニ付趣意申出候得共、下総守先
刻絵図面ヲ以承届其上差懸り候事故一通り趣意申先事相済申候得共殊之外麁略之取斗ニ
付、一通り可申上と申出候処夜も更、先刻より御執政も御退出無之事ニ付、上江申上候余り延
引ゆへ銘々明日登 城之上可申上(略)
出典
「多聞伝八郎覚書」(赤穂市発行『忠臣蔵第三巻』)
『元禄赤穂事件』(成美堂発行)
凡例
−原史料を抹消している箇所

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