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文政元(1818)年発行(第070号)

忠臣蔵新聞

「浅野本家が伊達本家に抗議」
に新事実(1/3)

文禄5(1596)年以来両家は絶交
読者よりの情報

浅野長政さん 伊達政宗さん

浅野家と伊達家の絶交の原因(1596年)


【概略】
 文禄5(1596)年8月14日、伊達政宗さんが浅野長政さん(五奉行筆頭)に絶交の通告をしました。
 その理由を11カ条に認め、最後に「これからは浅野家に行くことも又何かを申し入れることも一切しません」(『貴殿へ参事も、又申入事も、一切可相止候…』)と激しい言葉を書き連ねていました。
 11カ条の主な内容を見ると、「知行をすべて秀吉さんに進上したい」とむり書かされた。もう一つは文禄の役の時、伊達政宗さんが晋州城の近くまで攻めていたのに、長政さんの命令で退去した。後にこれが原因で政宗さんは皆から臆病者と噂されるようになった。
【検証】
 検地については、天正18(1590)年8月12日付けの秀吉さんから長政さん宛てに仙台地方の検地心得を示す史料(検地に反対する者は『一人も残置かず、なでぎりニ申付くべく候』)が残っている。
 文禄の役については、文禄2(1593)年明との講和がなって休戦することになっている。

長矩さん、庭前で切腹(1701年)


【以前の報告記事】
 元禄14(1701)年3月14日、浅野長矩さんは武士として切腹を命じられたが、その場所は田村家(伊達分家筋)の庭前であったので、浅野本家が伊達本家と分家(田村家)に抗議し、同じ文面を幕府に差し出しました。

和睦の試み失敗(1712年)


【概略】
 ところが、この切腹から十数年後に、浅野家と伊達家をめぐって重要な史料が発見されました。その内容は次の通りです。
 正徳2(1712)年11月23日、林大学頭信篤さんは浅野本家を訪問し、伊達家との和睦を説得をしました。それに対して浅野家は「和睦は時節に応じてはいるが、先祖よりの不通、今更和睦ということはいかがなものでしょうか」(『先祖より之不通、今更和睦仕候事、如何有之哉』)と返事をしました。
伊達政宗 (1657〜1636)
宗忠
綱宗 (1640〜1711)
綱村 (1659〜1719)
吉村 (1680〜1751)
 他方元老中稲葉正往さんは、妹が伊達綱村さんの夫人であるということで、伊達吉村さん(父が綱村さん)を説得する。しかし吉村さんは「浅野家に対し今後絶交すると政宗より書状を送り、浅野家からもそれに対する返事が来ている。いまさらこちらからどうこうは言い難い」(『彼家江向後申通間敷と正(ママ)宗より書付を遣…今更自此方何かと難申候』)と素っ気ない返事をする。

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