home back next

文政元(1818)年発行(第071号)

忠臣蔵新聞

「浅野本家が伊達本家に抗議」
に新事実(2/3)

正徳3(1713)年段階でも
両家は依然絶交

浅野長政さん 伊達政宗さん

和睦の試み、再度失敗(1713年)


【概略】
 正徳3(1713)年1月25日、それでもなお林信篤さんは浅野家に対して再び説得を開始する。
それに対し浅野吉長さん(父が綱長さん)さんは「代々不通であるのに、私の代に和睦をしては、
先祖への不孝になる」(『先祖江之不孝尓も可相成哉』)と答えました。しかし再三の信篤さんの
説得に浅野家は和睦に応ずる気持ちになっていきました。
浅野
長政
(1547〜1611)
長直 (1610〜1672) 幸長
長友 (1643〜1675) 長晟
長矩 (1667〜1701) 光晟
綱晟
綱長 (1656〜1693)
吉長 (1681〜1752)
 2月29日、稲葉正往さんは信篤さんに「伊達家からは政宗の絶交状の写しを添えて『先祖の意
志を無にすることになる』と返答してきた」と伝えました。
 信篤さんが「浅野家は応じてもいいと言っているのに…」とため息を付いたので、稲葉さんは再
度伊達家を説得することにしました。
 それに対して伊達家からは稲葉さんに「将軍が替わったと言っても我々の考えは変わっていな
い」(『手前之世ハ互尓替り不申候』)という手紙を送りました。 

index home back next