home back next

1701(元禄14)年3月16日発行(第073号)

忠臣蔵新聞

正使と副使らを再尋問

浅野本家からの抗議に老中が再尋問
庄田さんは「気づかなかった」と答弁
伝八郎さんは「気づいて掛け合ったが、取り上げてくれなかった」と反論

江戸城大手門 多門伝八郎の墓

浅野本家から老中にも苦情
庄田さんは「気づかなかった」と答弁
伝八郎さんは「気づいて掛け合ったが無益だっと」と反論

 翌16日に登城した所、老中の秋元さんから伝えられた内容は「若年寄衆が出席している所
で尋問がある」というもので、それを同僚が言ってきた。
 そこで大目付の庄田さんや目付の多門さんら3人が出かけた。
 秋元さんが「さる14日浅野内匠頭が切腹を命じられたとき、田村邸の庭前にて切腹させたの
は粗略なやりかたであると、伊達本家と田村家に掛け合った内容を私(秋元)にも浅野本家か
ら言ってきた。そのことについて、気づいたことはなかったか。そのような粗末な取り扱いもあっ
たならば、取り扱い方もあったであろう。
 それがなく、不念に思し召し、お答え次第で差し扣え仰せ付けられる」と尋ねた。
 庄田さんが「全く心づかなかった」と応えた。
 多門さんらが「そのことについては私たちは気づいたので、何度も掛け合った。大検使の取り
扱い、殊に多門さんはさる14日差し扣えになっていたので、何も知らなかった。そこで、切腹場
所を見分した所、今言ったように庄田さんに掛け合ったが、私たちの申すことについては無益
なような思われた」と応えた。

史料原文

 翌十六日登 城いたし候処、秋元但馬守殿被 仰渡候趣若年寄衆列座ニ而御糺之義有之
段御同朋より申来候間、御定口脇ニ而大目付庄田下総守・御目付多門伝八郎・大久保権右
衛門三人可罷出由、則罷出候処但馬守殿御糺ニは、去十四日浅野内匠頭切腹被 仰付候
節田村左(右)京太夫宅於庭前切腹為致候段麁忽之致方之趣松平陸奥守(本家伊達綱村)
并左(右)京太夫江懸合之趣ヲ以但馬守方ニ安芸守(本家浅野綱長)より被申立候、右ニ付
各方大検使・副使之面々不被心付候哉、左程麁末之取斗も有之候ハヽ取斗方も可有之処無
其儀不念ニ被思召被仰渡候ニ、御答次第差扣可被仰付と被仰渡候、下総守被申候ニは
奉恐入候、全ク心付不申候と御請也、伝八郎・権右衛門両人より御答ニは、其儀私共心付候
故再応懸合申候
へ共大検使之取斗、殊ニ伝八郎儀は去ル十四日差扣中故諸向不存故
所見分仕候処、右之仕合故下総守へ相答(掛合)候処、私共申立候儀無益之様ニも存候(略)
出典
「多門伝八郎覚書」(赤穂市発行『忠臣蔵第三巻』)
凡例
−原史料を抹消した箇所

index home back next