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元禄14(1701)年4月12日発行(第100号)

忠臣蔵新聞

あれる大評定(赤穂開城)

実は平穏な城明け渡し
岡山藩の忍の報告

開城をめぐり大評定(長安雅山画) 忍びの報告を得ていた岡山藩

4月11日(岡山支局発)

死を覚悟で上使に恨み言
賛同の者29名が連判

 4月11日、内蔵助さんは番頭など主立った者をお城に召集して、「上使が来たなら『一通りノ恨
ヲ申上候て腹切り可死覚悟ニ候
』。これに賛同するものは判形を」と提案しました。
 内蔵助さんの親戚である奥野将監さんら主立った者が先にこれに判形し、次いで彼らの一党が
応じました。結局その数は29人に上っています。
 岡山支局員は岡山藩の忍さんからその名簿まで見せてもらいました。彼らの情報収集力の迅速
さや正確さには驚かされます。
史料原文

頭立候侍中御城江呼揃内蔵介被申渡候ハ、上使御越被成候ハヽ一通りノ恨ヲ申上候て腹切り可
死覚悟ニ候、同心之衆中ハ判形可被仕候・・・連判之侍中都合弐拾九人ニ而御座候

4月12日(赤穂支局発)

浅野本家からの脅迫で
平穏に決定したお城引き渡し

 4月12日、江戸より帰国した月岡治右衛門さんや多川九左衛門さんらは浅野本家や戸田氏定
さんから預かった書状を内蔵助さんに渡しました。そこには『御城無異儀引渡シ可被申候、無左
候而ハ浅野大学殿御為不宜義ニ候』、つまり「お城は異議なく引き渡せ、そうでなくば大学さんの
ためによくない」と書いてありました。
 内蔵助さんは連判の侍だけを屋敷に召集して、本家などから来た書状を見せました。その結果、
お城を引き渡すことが決定されたといいます。
史料原文

連判之侍中斗ヲ内蔵介屋敷江呼揃へ安芸守殿・采女正殿より参候御書ヲ拝見為仕候て、然上ハ
無異儀御城ヲ相渡シ可申由ニ相談落着仕申候
出展
赤穂市発行『忠臣蔵第三巻』

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