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元禄14(1701)年4月15日発行夕刊(第102号)

忠臣蔵新聞

内蔵助さんの存念(公的立場)と
安兵衛さんの本望(私的立場)

内蔵助さんの言う「以後の含み」とは何か

大石内蔵助さん(43歳) 堀部安兵衛さん(32歳) 二人が激論した遠林寺跡

4月14日午後7時(赤穂支局発)

安兵衛さんらは「上野介さんが
生存している以上は、籠城」と申し入れ 

 午後7時すぎ、堀部安兵衛さん、奥田孫太夫さん、それに高田郡兵衛さんが赤穂に到着して
内蔵助さんを訪ね、書院で面会しました。そして「上野介が今なお生きているのに、赤穂城を離
散してはどこに顔向けできようか。城を枕にして討ち死にする以外にない」と籠城を説きました。
 これに対し内蔵助さんは「籠城しては大学殿の指図に用に受け取られ、大学殿の身を滅ぼす
ことになる。そうなれば不忠になるというお指図である」と反論する。
 再び三人が「城明け渡しをしてしまっては、浅野家には家臣はいないのかと世間に言われるだ
ろう。願いが叶わない内は餓死しても離散してはいけない」と強硬意見を出しました。
史料原文

 「上野介今以存生ニ候ヘハ当城離散致シ何方へ面ヲ向ケ可申様無之候、唯城ヲ枕ニシテ果
ルノ外他事ナキ儀」・・・「大学殿指図ノ様ニ罷成候ヘハ、大学殿御身上滅亡ニ及ヒナン」

内蔵助さんは「城明け渡しは
浅野一族に約束している」と反論


 そこで内蔵助さんは「それはもっともであるが、もはや戸田氏定さんや大学さんに「お城を明け
渡すと約束した上は、そのようなことは出来ない」と答える。
 三人は「内蔵助さんは老身の役義」だからと説得をあきらめ、番頭奥野将監さんに相談するこ
とにしました。
史料原文

 「御請申上候上ハ左様難成存候」

4月15日(赤穂支局発)

内蔵助さん、「以後の含みもある」と説得
安兵衛さんらも納得


 三人は城下を引き払い遠林寺に移っていた奥野将監さんに同意をもとめましたが、結論は内
蔵助さんと同じでした。
 再度やったきた三人に対して、内蔵助さんは「この度は私に任せてほしい。これで終わりでは
ない」と言ったので、三人はやっと承知して旅館に帰りました。
史料原文

 「内蔵助ニ任セ候ヘ、是限(切)ニハ不可限以後ノ含モ有之候」

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