元禄14(1701)年4月18日発行(第104号)
内蔵助さんは存念を三度
受城目付に嘆願
受城目付が老中に取り次ぐと言ったことで、
内蔵助さんの存念は公約となる
赤穂城本丸跡 | 赤穂城本丸庭園跡 |
4月18日(赤穂支局発) | ||||
喧嘩安兵衛さん、内蔵助さんの執念を報告 城内見分の時、目付などに直訴 | ||||
荒木さんら目付と、石原さんら代官がそろったので、城内検分が始まりました。 内蔵助さんが見分の際、目付にした嘆願を支局が入手しました。なんと喧嘩安兵衛さんこと、堀部安兵衛さんから聞きだすことに成功したのです。 その内容は、以下の通りです。 | ||||
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内蔵助さんの口上「赤穂浅野家の再興」 幕府目付の反応はなし | ||||
「4月18日、赤穂城内を検分していた時、目付のお2人らに大石内蔵助さんが申し上げた口上です。 ”主君内匠頭が、この度、不調法をして法に従って処分されたことについては、家臣一同恐縮しております。 浅野本家の広島藩主安芸守さんや大垣藩主戸田氏定さんより、次々と命令も承っております。 しかしながら、大学の安否(浅野家再興)について赤穂浅野家家臣の者どもは、今なお落ち着かない心情であります。浅野長政さん(浅野家の祖)は、以前、権現様(徳川家康)より取り立てられた家筋ですので、大学がもう一度浅野家再興が許されて、将軍様の前にでてご奉公が勤まりますようにお願いいたします”。 その点申し上げました所。兎角の返事はありませんでした」 | ||||
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史料(1) | ||||
四月十八日城内見分ノ節両御目付中へ大石内蔵助申上候口上覚 一 内匠頭此度不調法仕候ニ付テハ法式ノ通被仰付候段家中ノ者共一同奉畏候、松平安芸守・戸田采女正ヨリ段々下知承知仕候、 乍然大学安否ノ処家中ノ者共今以落着不仕心底ニ差含罷在候、古弾正(浅野長政)以前従権現様御取立ノ家筋ノ義ニ御坐候ヘハ大学一度被遊御免罷出候テモ御奉公モ相勤り候様ニ奉願候 段申上候処、兎角ノ御挨拶不被仰候 | ||||
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(1)内蔵助さん、再度「赤穂浅野家の再興」を直訴 (2)幕府代官は「内蔵助や家中の心情はわかる」 (3)幕府目付は「委細聞いた、お上に言上しよう」 (4)満座の中の約束は「公約」となる (5)公約を引き出した内蔵助さん、お城を引き渡す | ||||
「そこで、又、内蔵助さんは、重ねて時節を計り、”先刻も申し上げました通り、今なお、家中の者どもは安心しておりません。この点をお聞き届け下さい”と申し上げました。すると、お代官にて来られていた石原新左衛門殿がその意見をお取り上げになり、”内蔵助の存念(考え)や家中の心情を考えると余儀無い(やむをえない)と思う”とご挨拶がありました。その時、両目付が申されるには”委細、聞し召し(お聞きになり)届けられ、お上に言上いたしましょう”と仰せ聞かされたそうです。 その結果、19日、龍野藩主脇坂淡路守さんと足守藩主木下肥後守さんへ、お城を引き渡しました」 | ||||
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史料(2) | ||||
故又重テ時節ヲ相計先刻モ申上候通、今以家中ノ者共安心不仕候、此段被聞召届被下候様申上候処、御代官ニテ御越被成候石原新左衛門殿御取合被仰候ハ、内蔵助存念家中ノ心底無余儀存候由御挨拶ノ節両御目付申被仰候ハ、委細被聞召届候、可及言上旨被仰聞候由(略) 一 同十九日卯下刻城脇坂淡路守(安照)殿、木下肥後守(■定)殿へ引渡ス | ||||
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内蔵助さんの真のねらいは 幕府による喧嘩両成敗 | ||||
内蔵助さんの存念は、幕府による喧嘩両成敗の完成であることがわかります。 赤字は現在の状況です。そこで、白字をここでは嘆願したことになります。 青字は既に、3月29日の嘆願書にまとめられています。 | ||||
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参考資料 「堀部武庸筆記 上」(赤穂市発行『忠臣蔵第三巻』) |