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元禄14(1701)年4月19日発行(第105号)

忠臣蔵新聞

6000の兵を配置
いよいよ、城明け渡し

各門の詳細
(クリック)
隅櫓(手前)と大手門 塩屋門

 午前1時、脇坂淡路守安照さんは大手門・清水門・二の丸門・
本丸門・厩口門・刎橋門に兵4545人を配置する。


 午前4時、木下肥後守公定さんは塩屋口門・干潟門・西ノ門・
透シ門・水手門・仕切門に兵1500人を配置する。

4月19日(赤穂支局発)

受城使兵6000人を配置
午前9時に無事城明け渡しが完了


 午前1時、脇坂淡路守安照さん(龍野藩主)は大手門・清水門・二の丸門・本丸門・厩口門・刎橋門
に兵4545人を配置しました。
 午前4時、木下肥後守公定さん(足守藩主)は塩屋口門・干潟門・西ノ門・透シ門・水手門・仕切門に
兵1500人を配置しました。
目付荒木十左衛門さんが大手門に、同役榊原采女さんが塩屋口門に出向き、受城を開始しました。
内蔵助さんは大書院に呼び出されて、次の申し渡しを受けました。
 @大石内蔵助さんには用があるので、赤穂に残留すること
 A残務を始末する者の名を差し出すこと。その者の費用を支給すること
 城の明け渡しを終えた内蔵助さんらが受城目付らに挨拶しました。
内蔵助さんらは大垣藩の使者戸田権左衛門さんや浅野本家の使者井上団右衛門さんらに「無事開
城」を報告しました。
 木下肥後守公定さんは自分の責任の諸門を脇坂淡路守安照さんにゆだねて、領地足守に向かい
ました。
 脇坂淡路守安照さんの龍野藩家臣が翌元禄15年2月13日まで赤穂に在番することを命じられまし
た。

内蔵助さん
住み慣れた赤穂城を去る

内蔵助さんが最後にくぐった清水門
 午後4時、内蔵助さんは清水門をくぐって城を後にしました。
 この時、浅野本家の使者井上団右衛門さんは「大石殿が明け渡しを渋るなら、私は刺しちがえて死
ぬ覚悟であった」と言って、内蔵助さんを見送ったという話が残っています。

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