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元禄14(1701)年6月18日発行(第108b号)

忠臣蔵新聞

神崎与五郎さんの動静
岡山津山藩改易で赤穂藩に仕官
その4年後、赤穂藩改易で浪人し、相生へ

中央右のが神崎与五郎の孝行井戸位置
6月18日(東京本社発)
神崎与五郎さんと相生・那波
 元禄10(1697)年、森蘭丸さんを祖とする津山藩森家が無嗣改易されました。
 その結果、浪人となった神崎与五郎さん・茅野和助さん・横川勘平さんは、赤穂浅野家に召し抱えられました。給料は、3人とも、5両3人扶持でした。
 
 神崎与五郎さんは、郡目付という役目がら、度々、那波村(現在の兵庫県相生市那波)を訪れました。その定宿が庄屋の三木家でした。赤穂藩郡目付当時の別宅は、現在の駐車場(那波本町17の16前)と比定されています。

 元禄12(1699)年、神崎与五郎さんは、那波浦荒神山で『那波浦十景』を撰しています(史料1)。

 その4年後の元禄14(1701)年3月、赤穂浅野家の主君・浅野内匠頭さんの刃傷事件で浅野家が改易されました。

史料1
神崎与五郎撰「那波浦十景」
 元禄の十二己卯歳(1699)那波浦荒神山に於て浅野氏家臣神崎与五郎那波浦十景を撰す
 濱田之早苗 攣子島凉舟 竹島之暮雪 大島之藤花 宮山之躑躅
 向ヒ鼻夜漁 岡之台秋月 汐見坂夕霧 鍋崎之蛤狩 白鷺鼻群蟹
  右神崎の作れる那波浦十景を氏神大避社へ奉納す
      田中孫四郎  書写
   庄屋 孫左衛門 保管

 開城後の4月、神崎与五郎さんは、那波村に移住しました。那波に移り住んだ理由としては、那波村の庄屋・三木家の尽力があったとされています。住んでいた場所は、「孝行井戸」の近くだったと言われています。

 『播磨国赤穂郡那波村高反別并永荒諸色提出』は、元禄14(1701)年6月8日、那波村庄屋孫左衛門さんから代官所へ提出した書類です。それによると、「浪人の1人、浅野内匠頭様の浪人である神崎与五郎が那波村の那波屋九郎左衛門家におります」(史料2)。
 那波屋九郎左衛門家とは、旧表屋(現那波西本町6の1)の屋敷のことです。

 元禄14(1701)年4月、与五郎さんは、大石内蔵助さんの指示で、吉良邸を視察するため、江戸に出ました。相生に居た期間は、約1年ということになります。
史料2
一、牢(浪)人 壱人 浅野内匠頭様牢人衆神崎与五郎 当村九郎左衛門家に御座候
『播磨国赤穂郡那波村高反別并永荒諸色提出』

史料3
神崎与五郎の詠んだ丘ノ台の句
  丘ノ台 古城のあとに吹く綿を
       己は着ねども 暖に見ゆ

  水仙に 酔顔見せず 梅もどき(田中弘司家所蔵)
と丘の台を詠んだ歌二首と
  朝日てる 国光稲荷山桜
        花を眺めて 君を思はむ
の一首が今も伝えられている。

色神崎与五郎さんの『那波十景』とは
 神崎与五郎さんの有名な『那波十景』という俳句があります。
 冒頭に、「元禄14(1701)年中秋祭日」とありますから、開城後、那波村に住んだ時の作品だと言えます。
古伝那波十景と神崎与五郎の詠んだ発句
宮山松開花 神山や 松はすねつつ 花の雲 那波宮山
渡田面早苗 那波と陸 争ひはなし 夕田植 那波大浜町一帯
■渕流蛍乱 すんなりと 渕に入りてぞ 蛍の火 入鹿渕の池
岡野台秋月 海山も 月の隅かな 岡野台 那波丘ノ台
雪降台暮雪 龍神も 雲を見よとや 山のかげ 天ケ台山
二子対姨川 川柳 まねいて見るや 二子島 薮谷川・半田病院付近
浮水大島翠 大島や 海はいよいよ 夏木立 大島山
大避崎宿鷲 此の月に 素面なりけ新 秋の鴬 那波大避神社南
相生浦漁舟 涼みかも 網帆唐めく 相生の舟 旧皆勤橋付近東寄り
馬通曲江望 彩色や 入江々々の 浅かすみ 松之浦付近
■(魚+孚)

神崎与五郎さんらの師匠・水間沾徳さんとは
 大高源五さんは、沾徳と号する宗匠・水間治郎左衛門友兼さんについて俳譜を学び、子葉と号しました。
 源五さんは、討入りの翌日(12月15日)、沾徳さんに次のような手紙(史料4)を送っています。
 「さては私儀、所存の一筋やみ難く、今晩思い立つことがありました。長くご懇意にしていただき、一道をお伝えの御厚情は、あの世までも忘れません。
  山を抜く力も折れて松の雪
 春帆、竹平も同道しました。洞泉はご存知の通りです。お借りしていた御ふとんは、相談して、そのまま打ち捨て置きました。引導代りの御一句を、是非是非、御願い申し上げます」


「春帆、竹平も同道しました。清泉はご存知の通りです」
 春帆とは富森助右衛門さん、竹平とは神崎与五郎さん、涓泉とは萱野三平です。手紙からこの3人は、俳諧について、水間沾徳さんに師事していたことがわかります。
 では、この水間沾徳さんとはどういう人なのでしょうか。
 沾徳さんは、寛文2(1662)年、江戸で生まれました。俳諧は内藤露沾に師事しました。榎本(宝井)其角とも交流しました。松尾芭蕉が亡くなると、其角・沾徳両門は、江戸俳壇の主流を形成しました。両者の共通点は、洒落風を強調し、後に主流となる前句付には意識が及んでいないことです。其角さんが亡くなると、沾徳さんは、大宗匠として君臨しました。
 享保11(1726)年、沾徳さんは、65歳で亡くなりました(『水間沾徳年譜』など)。

 記者は長い間、水間沾徳さんは赤穂か赤穂周辺の宗匠と思っていました。しかし、水間沾徳さんをよく知っている大高源吾さんから、そうではなく、江戸の人で、江戸の大御所だと知らされました。そんなすごい人と交流できる与五郎さんの学識もすごかったということですね。
 基礎力は、相生に居た時に、既に身に着けていたから、江戸で花開いたといういことでしょうか。
史料4
 扨者私義所存之一筋難止、今晩存立候趣御座候。年来御懇意ニ罷成候一道御伝御厚情、彼是以生々世々ニ及申候事ニ御座候。
 山をぬく力も折れて松の雪
 春帆竹平も同し道にて候。涓泉ハ御存の如くにて御座候。御恩借の御蒲団ハ申談て其儘打捨置申候。御一句之引導奉頼ゝゝ候。以上
十二月十五日                  
子葉
 沾徳先師

神崎与五郎さんと「孝行井戸」とは
神崎与五郎孝行井戸
 地元の人は、相生市那波本町にある古井戸(27の13)を「孝行井戸」といい、神崎与五郎則休の話を伝えています。

 赤穂義士の四十七士の一人、神崎与五郎は岡山県人で赤穂藩の一人でありました。
 役柄(御徒士目付)といって全義士中後ろから3番目の貧乏侍であったそうです。しかし、神崎与五郎は藩中きっての孝行侍と知られていました。そして、度々御膳にて主君と共に吟句を楽しむなど特別な待遇であったそうです。
 神崎与五郎は那波(現在の「井戸」の入口左角 潮見邸あたり)に役宅を与えられ、母と二人慎ましく暮らしていました。ある日、その母が目の不治の病にかかり、常に孝道に心掛けていた神崎与五郎は那波荒神山の國光稲荷社の籠堂に、毎日無心で祈願していました。そして七日目の夜更に突如、御神殿の内より、扉を押し開く音、すると若い美女が手に三光の玉をもってあらわれ、そのうしろに天童一人が稲穂を持ち出現し、玉光は月夜のごとくあたりを照らし 「大神は神崎与五郎の孝心を見て、天下台よりさし昇るご来光の光線を口に戴き、赤松の葉をかみしめ、井戸水で目を洗え、塩水をのませよ。されば苦悩去らん』とお告げがあり、早速、下山し、お告のごとく行うと、母の目の不治の病が治ったという伝説であります。
 『目を洗うために使った 水がこの井戸水』
         神崎与五郎孝行の井戸保存会

神崎与五郎さんの江戸での活躍
 江戸に出てからの与五郎さんの活躍は、次のように報告いされています。詫び状文(『赤穂義士誠忠畫鑑』)
 元禄14(1701)年3月、浅野内匠頭が吉良上野介に殿中刃傷に及んだ時、神崎与五郎は、神文血判を提出しました。
 赤穂城開城後、与五郎は那波に住み、ここで那波十景を詠みました。
 元禄15(1702)年4月、病にかかって寝込んでいた岡島八十右衛門にかわって江戸に下向しました。
 箱根の山の茶屋で休んでいると、峠の馬方・丑五郎から「わしの馬に乗れ」と言いがかりをつけられました。与五郎が断ると、「わしの馬には乗れんのか」とよけいからんできました。
 討ち入りの大事を前に、与五郎は我慢に我慢を重ねていると、丑五郎は、腰抜け侍と思って「詫び証文を書け」と要求してきました。証文を書くと、今度は、「丑五郎の股くぐり」を
強要しました。丑五郎は「腰ぬけ侍」とののしって立ち去りました。
 その後、吉良邸討ち入りがあり、その中に詫び證文を書いた侍がいたことを知り、丑五郎は、深き後悔したということです。
(1)神崎与五郎は、春より江戸にやってきて色々と働きました。市兵衛町に店を相構えて、夏中は、扇子など売っていました。上野介の住んでいる町の情報を聞くためということです。

(2)与五郎は、扇子や地紙(扇の地紙)売りになって、麻谷町に住んでいました。この借家の大屋儀は、上野介殿の家臣で歩行役人の伯父だったので、遠方でしたが、ここに住むようにしました。首尾よくいけば、伯父を介して上野介殿の中間に成れると念願しましたが、これは失敗しました。
史料5
(1)神崎与五郎事春より江戸へ相働き、市兵衛町に相構へ、夏中は扇子など売被申候。町沙汰等可聞合為なり

(2)与五郎事扇子と地紙売りに成候て、麻谷町に罷在候。右借宅の大屋儀は上野介殿歩行の者の伯父にて候間、乍遠方、此所に居申候。首尾能候は右えもの口入を以上野介殿中間に成共相済可申念願に候得共、此段は成不申候

神崎与五郎さんの「ならぬ堪忍するが堪忍」
詫び状文(『赤穂義士誠忠畫鑑』)
 元禄14(1701)年3月、浅野内匠頭が吉良上野介に殿中刃傷に及んだ時、神崎与五郎は、神文血判を提出しました。
 赤穂城開城後、与五郎は那波に住み、ここで那波十景を詠みました。
 元禄15(1702)年4月、病にかかって寝込んでいた岡島八十右衛門にかわって江戸に下向しました。
 箱根の山の茶屋で休んでいると、峠の馬方・丑五郎から「わしの馬に乗れ」と言いがかりをつけられました。与五郎が断ると、「わしの馬には乗れんのか」とよけいからんできました。
 討ち入りの大事を前に、与五郎は我慢に我慢を重ねていると、丑五郎は、腰抜け侍と思って「詫び証文を書け」と要求してきました。証文を書くと、今度は、「丑五郎の股くぐり」を
強要しました。丑五郎は「腰ぬけ侍」とののしって立ち去りました。
 その後、吉良邸討ち入りがあり、その中に詫び證文を書いた侍がいたことを知り、丑五郎は、深き後悔したということです。
参考資料
『忠臣蔵第三巻』(赤穂市発行)
『江赤見聞録』

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