元禄14(1701)年6月18日発行(第110号増刊)
堀部安兵衛さん
片岡源五右衛門さんらと不仲
安兵衛さんは、内匠頭寵愛2人を大笑す
2人とは片岡さんと磯貝さん
堀部安兵衛さん (馬廻り使番200石34歳) |
磯貝十郎左衛門さん (物頭側用人150石25歳) |
片岡源五右衛門さん (児小姓頭350石37歳) |
父は櫓焼失の責任をとり浪人となる。堀内道場の代稽古を勤める。高田の馬場の決闘が有名である。剣一筋で浅野家に仕官する。 | 生れつき眉目秀麗で、かつ怜悧明敏で器用であった。14歳の時に児小姓に抜擢され、無高から150石へ出世する。 | 生れつき眉目秀麗で、頭脳明晰であった。主君から寵愛を受け、100石から350石へ出世する。 |
安兵衛さんらは源五右衛門さんや十郎左衛門さんらを同志に入れる 心変わりした2人は、連絡を絶つ 十郎左衛門さんらが町人になっているのを見て、大笑い |
6月29日頃(東京本社発) |
剣一筋の堀部安兵衛さんは、ジャニーズ系というだけで、浅野内匠頭さんの寵愛を受けて出世した片岡源五右衛門さんや磯貝十郎左衛門さんらとは肌が合いませんでした。 やがて刃傷事件がおこり、赤穂城は落城しました。その後の経過を、安兵衛さんは、次のように語っています。 その後、磯貝十郎左衛門さんらは、亡君の厚恩を受け、浅野内匠頭さんが切腹した時は、落髪までした者たちです。最近になって、私たち3人の所をやってきて、「仲間になって、その本意を遂げ、亡君の憤りを晴らたい」と言ってきたので、人数の内に加えました。そして、「寵愛を受けた者として、主君を追って切腹しなければならない立場だが、仇討ちに加わりたいいうのももっともである」と申し聞かせてやりました。その後、色々と考えたのでしょうか、心変わりして、連絡をしなくなりました。 最近、源助橋辺りに酒店を出し、町人になっていました。余りのことに、大笑いをしてしまった。 |
史料 |
「扨磯貝十郎左衛門義ハ亡君年頃ノ厚恩ヲ受切腹ノ砌落髪迄仕タル者也、此節迄ハ三人ノ者共方へ罷越各草履ヲ取候而ナリ其本意ヲ遂ケ亡君ノ御憤ヲ散度ノ由度々三人方ヘ通達致候ニ付テ人数ノ内ニモ相加ヘ、其方義ハ追腹ヲモ仕候ハネハ不叶者ナレハ尤ノ所存ト申聞セ候処、其以後何トカ思案致シケン、心替シテ音信不通ニ成、源助橋辺酒店ヲ出シ不通ニ人ニ不出合町人ノ体ニ成ケル、余りノ事大笑致シケル」 |
器用でおべんちゃらが言える源五右衛門さんら 無骨で不器用な安兵衛さん 出世はどちら? |
磯貝十郎左衛門さんは、京都のお寺の稚児でしたが、ジャニーズ系の風貌だったので、浅野内匠頭さんから採用されて150石を与えられました。無高からですから、破格の扱いです。 片岡源五右衛門さんも、ジャニーズ系の風貌だったので、浅野内匠頭さんから寵愛を受け、父の財産を受け継いだ時は100石でしたが、その後、加増されて350石となりました。内匠頭さんが切腹した時、最後に会ったのが、源五右衛門さんとされています。 十郎左衛門さんは、鼓の名手で、多くの人から激賞されていましたが、主君の内匠頭さんが鼓が嫌いだと聞き、以後鼓を打つことを封印したといいます。おべんちゃらの名手でもあったのです。 他方、堀部安兵衛さんは、苦労人です。剣で就職した無骨者で、おべんちゃらも言えません。養父から受け継いだ財産は300石でしたが、養父の隠居料50石と安兵衛さんの石高200石を合わせても、50石の減収です。 源五右衛門さんらが町人になって吉良邸を探っても、不器用な安兵衛さんには、そんな真似は出来ません。 今のサラリーマンでも、ジャニーズ系で、器用でおべんちゃらが言えるのが出世するのでしょうね。 |
参考資料 『忠臣蔵第三巻』(赤穂市発行) |