home back next

元禄14(1701)年9月2日発行(第111号)

忠臣蔵新聞

上野介さんが幕府管轄外の
本所松坂町に移転

江戸での噂
「幕府は浅野家臣の仇討ちを黙認か」

江戸城近くの呉服橋より隅田川対岸の本所松坂町へ移転
現在の本所松坂町周辺
9月2日(東京本社発)
幕府の手の届かぬ本所に移転
妻富子さんは別居を決意
 幕府は隠居の身の吉良上野介さんに江戸城の内郭(幕府の管轄地域)である呉服橋の屋敷から本所松坂町(上総国)の松平登之助さん(両国橋の外の外郭)の上屋敷(空屋敷)移ることを命じていましたが、この日上野介さんは移転しました。
 建坪は846坪で、土地面積は2550坪と言われています。
 しかし、上野介さんの妻富子さんは辺鄙な本所を嫌って、都心の白金の上杉下屋敷に移って別居を決意しました。
江戸の市民は「仇を討たせるつもりか」と噂
 上野介さんが本所に屋敷替えを命令されたことを江戸の人々はどのように思っているのでしょうか。多くの人は「内匠頭さんの家中が存念を達する時節が来た」という噂をしていました。(「内匠殿衆ノ仕合存念ハ可達時節ト専取沙汰仕候」)
上野介さんの身内からも同じ様な声が
 確かな情報によると、上野介さんの従弟婿である松本城主の水野忠直さんが親しい友人に「上野助さんが本所松坂町に屋敷替えを命じられた」と話した所が、お伽をしていた座頭が「是ハ従御公儀 内匠頭家来ニ討候ヘト」(それでは幕府が内匠頭さんの家来に上野助さんを討て言っているようなものではありませんか」と言うと、「成程其通ナリ」(その通りである)と答えたと言います。
幕府の真意は?
 記者は、江戸の市民や上野介さんの周辺からこのような声が出ていることに不思議な気持ちがしています。幕府の真意とは何か。今後とも継続してその背景などを探っていきたいと思っています。
参考資料
(赤穂市発行『忠臣蔵第三巻』)

index home back next