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元禄14(1701)年9月2日発行(第111a号)

忠臣蔵新聞

吉良邸の本所移転
上杉本家の財政負担

過去の吉良邸援助を総調査
上杉家臣「吉良殿の強欲で御家が傾く」

江戸城近くの呉服橋より隅田川対岸の本所松坂町へ移転
現在の本所松坂町周辺
旧現の吉良邸(は旧吉良邸、は現吉良邸)
旧現の吉良邸には自信がありません(御教示ください)

吉良家の華麗なる一族
徳川家 家康 秀忠 家光 綱吉 鶴姫
頼宣 光貞 綱教
━━女
保科 正之 春子 吉憲
綱 憲 春千代
上杉家 謙信 景勝 定勝 綱勝   
政子 富子
‖━ @女
北条時政 三之助
義氏 長氏 義定 義弥 義冬 義央 A女
足利義康 泰氏 尊氏 ━━━ 義周
B女
@女(島津綱貴室)
A女(津軽信房室)
B女(酒井忠平室)

9月2日(東京本社発)
吉良上野介が上杉富子と結婚
上杉家は吉良家の金庫番か?
 寛永18(1641)年9月2日、吉良義央が江戸鍛冶橋邸で生まれました。
 明暦3(1657)年12月21日、吉良義央(18歳)は上杉家(30万石)の富子(19歳)と結婚しました。富子は、実家から化粧料(持参金)として6000両を持参しました。
 明暦3(1657)年12月27日、吉良義央(17歳)は従四位下に進み上野介と名のりました。
 寛文3(1663)年2月19日、吉良上野介(23歳)は霊元天皇践祚(即位)の賀使として上洛し、その功により父を越えて従四位上に進みました。
 寛文4((1664)年閏5月7日、上杉本家の上杉綱勝が母の婿殿(吉良上野介)邸から帰宅してすぐ、嗣子なく、亡くなりました。上杉氏は無嗣子断絶運命でしたが、綱勝の岳父(妻の父)・保科正之の尽力で、綱勝の妹富子が嫁いでいた吉良上野介の長男・喜平次が上杉家当主となり、上杉綱憲となりました。その結果、お家断絶は免れましたが、知行地は30万石から15万石に半減されました。
 上杉綱勝の急死した事実から、上野介の毒殺説が浮上しています。
 当時の上杉家江戸家老・千坂高治は、「千坂兵部日記」に綱勝の病状を記録しています。
 それにより、『山形県史』は、綱勝の死因は「穿孔性胃潰瘍による病死」としています。
史 料
一、閏五月朔日、夜半より御腹中お痛み、道是がはっとくえんを御服用させ申候へば、夜明迄七、八度嘔吐成され
一、四日から腹部が張って苦しみ、玄勝に代わって井上玄哲の治療、山下友仙が召しだされ治療したが、腹が張って苦痛つよし。
一、五日にお嘔吐、小豆の煮汁のようなものをお吐き成され、憔悴ひどし。
一、六日昼、御床の上にて大便通三度通る。六日、夜中より御手足ひえ、御脈にむら出る。
一、七日卯の刻(午前六時)往成被成也

 延宝元(1673)年、上杉喜平次(11歳。上野介の長男)は為姫(徳川御三家・紀伊大納言徳川光貞の三女)と婚約しました。
 延宝4(1676)年、上杉綱憲は、吉良家の借金6000両を肩代わりしました。
 延宝8(1680)年8月18日 、浅野長矩(14歳)は従五位下に進みました。
 8月21日、浅野長矩は祖父長直と同じ内匠頭に進み、浅野内匠頭長矩となりました。

 9月19日、吉良上野介(40歳)は左近衛権少将に任ぜられました。知行高4200石では、格式に見合う饗応や衣食を賄いきれません。最もあてになるのは、上野介の実子で上杉家の当主・上杉綱憲ということになります。
 天和元(1681)年6月8日、吉良上野介は、借金の返済が滞り、呉服屋の伊兵衛から500両の返済を訴えられました。そこで、上杉綱憲は、奉行の須田右近に命じて、高家の畠山下総守義寧や生善院らとこの問題を協議させています。その対応に苦心している時、さらに、さがみ屋又兵衛・薪屋庄兵衛など10軒の商人にも借金があることが分かりました。吉良家の借金の総額は、2780両に達していました。
 上杉綱憲は、吉良家の借金2780両を肩代わりしました。上杉綱憲は、これが公になると、上杉家のメンツにかかわるということで、支払ったのです。
史 料
 天和元(1681)年6月8日付の奉行人書状(須田右近書状写し)
 「上野介様の御身上は、かねて御不如意に候いて、御迷惑なされ候。なかんずくこの頃は、呉服所の伊兵衛と申す者が、町奉行へ書付を指し上せ候」

 貞享2(1685)年9月1日、吉良家では、跡取りの次男・三郎が亡くなりました。吉良上野介は、幕府や上杉綱憲と協議して、綱憲の次男・春千代を吉良左兵衛義周と改名させて、吉良家の養子にすることにしました。
 元禄3(1690)年4月16日。吉良上野介は、義周を鍛冶橋の邸宅へ迎えました。上杉家の家臣山吉新八郎らが付き人として同行しました。
 吉良上野介の長男で、上杉家の当主・上杉綱憲は、実母の富子(御前様)に5000石、実父の上野介(鍛冶橋様)に1000石、合計6000石を毎年計上しています。
 さらに、吉良家に派遣した十数人家臣の封禄に350石を毎年援助ししました。
史 料

移転しも、改築しても、新築しても、お金はかかります
吉良家はそのお金をどう工面したのでしょうか
 元禄11(1698)年9月6日、江戸の大火により、鍛冶橋御門内の吉良邸が類焼しました。その後、呉服橋に移住して、吉良邸を新築しました。呉服橋邸は、2700坪ありました。 吉良上野介は、実子で上杉家本家の養子・上杉綱憲に対して、呉服橋邸の建築資金2万5500両を援助させています。
 元禄12(1699)年1月6日、色部又四郎安長が上杉家江戸家老となりました。千坂兵部高房が上杉家江戸家老を辞任しました。 
 元禄14(1701)年8月19日、吉良上野介は、呉服橋邸から本所一ツ目回向院裏に屋敷替えを命じられました。本所の吉良邸は、建坪は846坪、土地面積は2550坪もありました。
上杉家の家臣の憤慨
「吉良殿の強欲によって御家が傾く」
 上杉綱勝が死んだ時、藩庫には6万両(12億円)があったが、上杉綱憲の時代にはほとんど空っぽだったそうです。このため、上杉家の家臣たちは「吉良殿の強欲によって御家が傾く」と、憤慨したほどだ。
参考資料
(赤穂市発行『忠臣蔵第三巻』)

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