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元禄14(1701)年11月10日発行(第115号)

忠臣蔵新聞

15人の江戸会議
私的制裁派と公約遵守派が妥協

「来年三月中に決行するつもりで相談する」
ということで意見が一致


瑤泉院さんは「浅野家のため公金使用」を許可
(11月14日)

11月10日(東京本社発) 

「三月中に討入りを決行するつもりで相談すべきだ、大学様閉
門中に鬱憤を晴らせば大学様も面目も立つ」と急進派

 私たち3人が「3月中に討ち入りを決行するつもりで相談すべきである。大学さんの安否が分かってからというのは、大学さんを口実にしており、君臣の礼儀に欠けている。大学さんの結果がよかったとしても、私たちは上野介さんを見逃すことは出来ない。大学さんが閉門の内に鬱憤を晴らせば、結局は大学さんの面目も保たれ、君臣の礼儀も立ちます」と申し入れました。

「三月と切る必要はない、三月より前でも大学様の安否が
決まれば決行する。ともかく安否を見る」と内蔵助さん

 それに対して内蔵助さんは「3月と期限を定める必要はない。3月より前でも大学さんの安否が決まれば、討ち入りを決行する。ともかく安否を見極めたい」と答える。

「ともかく日を限定しないと皆の心が定まらない」と急進派

 再び私たち3人は「それは納得できない。…まず3月中と決めて吉良方の様子を探る。3月中にも様子が知れなかったならば1〜2ヶ月は見合わせ、吉良方を探る。以上のような理由から日を限定しないと、皆の心底も決まらず、準備するにも身も入らない。ともかく3月中と決めていただきたい」と申し入れた。

内蔵助さん、三月中に決行すると妥協

 内蔵助さんは「それでは三月中に決行する(然ハ先三月中ニ存立候)というつもりで申し合わそう」と私たちの意見に同意する進藤さんが具体的な計画は京都丸山で相談しようと提案


次の部屋の大高さんらが「三月と決まったか」と問うので、
私が「そうだ」と答えると、彼らは「それこそ本望だ」と喜んだ


 内蔵助さんをも説得させる安兵衛さんの覇気がびんびん伝わってきました。こうして浪士達の動きは一気に加速することになりました。
参考資料
『忠臣蔵第三巻』(赤穂市発行)
渡辺世祐著『正史赤穂義士』(光和堂)
飯尾精著『実録忠臣蔵』(神戸新聞総合出版センター)

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