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元禄14(1701)年12月11日発行(第117号)

忠臣蔵新聞

幕府、上野介さんの隠居を許可
義周さんの家督相続も

米沢へ隠棲の可能性が出てくる

米沢城跡(15万石の居城) 吉良上野介さん
12月11日(東京本社発)

幕府、上野介さんの隠居を許可


 幕府は吉良家の願いの通り吉良上野介さん隠居を許可すると同時に、養子左兵衛義周さん(16歳。米沢15万石上杉綱憲さんの子)の家督相続も許可しました。
史料

 「十二月十一日吉良父子願ノ通隠居家督被仰付候」 

幕府、喧嘩両成敗を否定
いぜん柳沢吉保が権力掌握

隠居に対する考え

【1】幕府の考え(幕府番記者の報告)
 3月の混乱していた時期の決定でなく、冷静な時期の決定だけに幕府の考えがはっきりわかるのではないでしょうか。
 そこで幕府の広報担当者に「吉良家の願いの通り上野介さんの隠居と義周さんの家督相続を認め、内蔵助さんら浅野家の願いを否定した事を幕府はどう考えているのか」と聞きました。
 幕府の広報担当者は「世間では色々噂しているようだが、幕府としてはあの刃傷事件は喧嘩ではなく、浅野内匠頭さんの一方的な乱心であるという考えです。この考えは将軍綱吉さんの決定を再確認したという事でもあります。従って喧嘩両成敗としての上野介さんの処分はないということであす」と明快に答えました。
 当時老中の決定は喧嘩両成敗でしたが、綱吉さんの意向を汲んだ側用人柳沢吉保さんが乱心として一方的に内匠頭さんを処分しました。今回の決定をみても、いぜん幕府の重要決定は吉保さんが握っているということが伺えました

内蔵助さん、公約後の討ち入りを決意か?


【2】大石内蔵助さんの考え(大石番記者の報告)
 この段階でこの決定は内蔵助さんには届いていませんが、今までの考えから次のように推測してみました。
@主君内匠頭さんが刃傷に及んだのは、吉良上野介さん が仕掛けたからの喧嘩である。喧嘩両成敗である以上、 浅野家が処分されるなら、吉良家も処分されるべきであ  る。義周さんが出仕しているなら、大学さんも出仕すべき である。これを目付に訴え、老中に取り次ぐと約束した。 これが公約としてまだ生きている。
A討ち入り後では長広さんの出仕はない。公約通りの長  広さんの出仕後には討ち入りは可能である。

安兵衛さんら急進派、浅野家再興を断念
上野介さんの隠棲を心配

【3】堀部安兵衛さんら急進派の考え(堀部番記者の報告)
 記者は安兵衛さんに「12月11日に幕府は上野介さんの隠居と義周さんの家督相続を許可しましたが、これについてどう考えていますか」と聞きました。
 安兵衛さんは「上野介さんの隠居を認めたことは、幕府はこれ以上の処分をする意志がないということである。浅野家の再興も喧嘩両成敗を幕府が否定したことで、認められぬ嘆願である」と明快な解答でした。
 つづいて「両成敗をいつまでも待ち、浅野家再興を主張する内蔵助さんの考えはもう成り立たない」と述べ、「上野介さんが隠居した結果、江戸の上杉藩邸か米沢に引き取られる可能性が出て来たことだ」と心配ごとを口にしました。

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