home back next

元禄14(1701)年12月末発行(第122号)

忠臣蔵新聞

高田郡兵衛さんが脱盟
大きな衝撃が走る

安兵衛さんら江戸の急進派の焦り
長引くことで脱落者が増加
秘密の漏洩の可能性

「徒党は一家滅亡」と脅迫
漏洩を恐れ脱盟する郡兵衛さん


1701年12月末(東京本社発)

 このころ、高田郡兵衛さんが脱落しました(最初の脱盟者)。
 そのいきさつは次ぎの様なものです。
 高田郡兵衛さんの父方の伯父内田三郎右衛門さんは以前(11月23日)「妻も無く子もないので、郡兵衛を養子にしたい」と主人にお願いしていたところ、今日許可がでた。ところが郡兵衛さんが返事をしない。三郎右衛門さんは「内匠頭さんへの義理については、養子となり、幕府に出仕するので何ら障害にはならない」と迫る。

 困った郡兵衛さんの兄の弥五兵衛さんは討ち入りを約束していることを話してしまった。
 その時三郎右衛門さんが「五人以上が申し合わせるということは徒党となる。討ち入りということになれば後日私たちの過ちは免れない。一家は滅亡になる」とびっくり仰天した。
史料

 「五人以上申合仕儀ハ既ニ徒党ト被仰出儀ニ付此度我等心底ニ不随候ヘハ我等名跡断絶致事候、弥左様ノ事ニ候ヘハ後日ニ我々其過難遁事共ニ候、後日一家及滅亡候義必定也」
 このような話を郡兵衛さんは同志の安兵衛さんと兵左衛門(孫左衛門)に話しました。安兵衛さんらは「その様な人なら立腹の余り討ち入りを言いふらすかもしれない。そうなれば皆の存念も遂げられなくなるので、大事の前の小事である。同志には我々からうまく言っておく。早速養子の話をお受けしなさい」とあわてて答えた。
 郡兵衛さんは「それならば三郎右衛門の心に叶うよう返事する。あなた方が来春上京の時まではこの話はしないで頂きたい」と言ったので、安兵衛さんらは「承知した」と答えた。

 この約束により郡兵衛さんの脱盟は春まで秘密にされ、署名には「病気のため署名できず」と書かれることになった。
 ここで重要なことは当時「5人以上が申し合わせれば徒党となり、一家が滅亡する」ということを認知していたことである。
 安兵衛さんの顔に無念さが伺えました。討ち入り時期が早ければ同志を失わなかったのにという気持ちです。今後、第二、第三の郡兵衛さんが出てくる心配がよぎりました。
 次に長引くことで、討ち入りの計画が口伝えに吉良方に漏れる心配も出てきました。


 幸い郡兵衛さんは脱盟しましたが、幕府に討ち入りの動きを訴えていません。伯父の内田さんも訴えていません。史料で見る限り、他の脱落者の誰もが秘密を漏らしていません。これを何と理解すべきでしょうか。記者は「脱盟したが、守秘した赤穂浪士もまた『義』ではないかと考えるようになってきました。
参考資料
 『忠臣蔵第三巻』(赤穂市発行)

index home back next