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元禄15(1702)年1月14日発行(第123号)

忠臣蔵新聞

萱野三平さん自害
「忠ならんと欲せば孝ならず」と

同志に大きな衝撃
急進派はより過激に

萱野三平さんの直筆(左)と木像(大石神社蔵)
1702年1月14日(大阪本社)
 萱野三平さん(28歳)は遺書を山科の大石邸にことづけ、郷里の摂津国(大阪)豊島郡萱野村の自宅で自害しました。
 その理由は、故郷で旗本大島伊勢守さん(父七郎左衛門さんの主人)が三平さんに対して自分に奉公する話を進めました。
 父の七郎左衛門さんも兄も大賛成で、仇討ちに参加させないためには、仕官しかないと勝手にこの話を進めました。
 それに対して、三平さんは主君浅野内匠頭さんの刃傷の時赤穂へ早使したこともあり、また親思いの青年でしたので、すごく悩みました。
 孝(奉公)ならんと欲すれば忠ならず、忠(仇討ち)ならんと欲すれば孝ならずと板挟みに悩み、14日を亡君の命日にみたてて、殉死の形式をとって自害したのでした。
 堀部安兵衛さんら急進派は大石内蔵助さんの方針が悠長であるからだと考え、より討ち入りを早める決意を固めました。

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