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元禄15(1702)年1月17日発行(第124号)

忠臣蔵新聞

京都の寺井玄渓宅で会議
大高さんが失意の模様を報告

「秋までは延ばさないという決定はよかったと思う」
理論派大高は冷静な内蔵助に同調
理論派の弱いところか

玄渓さんの墓 玄渓さんの墓がある長楽寺
1702年1月17日
 江戸の堀部安兵衛さんらに大石内蔵助さんから12月25日付けの書状(「下手な大工」)が届きました。

大高さんが安兵衛さんに京都の情報を報告
「事を急ぐことには決定せず『生煮え』ではあったが、
秋までは延ばさないということにはなった」

1702年1月17日(京都支局発)
 大高源五さんは堀部安兵衛さん・郡兵衛さん・奥田兵左衛門さんに京都東山の寺井玄渓宅での会議の模様を報せました。
 その内容は次のようなものです。
 「私たちが思っていた通り、皆は『上野介さんの隠居が認められたので、これまでという覚悟になった」が、急いで事を成し遂げようということにはなりませんでした。なんとも生煮えで彼らのことを考えると気の毒千万であった」
史料

 「急ニ事ヲ遂候ハントノ筋ニハ候得トモカタマリ不申候、何共々々ナマニヘニテ気ノ毒千万ニ存候
 「しかしながら討ち入りについては段々進めることにしました。『秋までは延ばさない』ということになったのはいいことだ」
史料

 「当秋迄ハ延申サヌ事ニ申候テセメテ大慶ニテ候
 「岡島八十右衛門さんがそのため近日江戸に下向することになりました。また、吉田忠左衛門・近松勘六も江戸に下向する事も決まりました」

内蔵助さんよりも信頼していた
小山源五右衛門さんが軟化
大高さんは小山さんを「内股膏薬で不届」と激辛批評

 同時に急進派が彼らのリーダーにと考えていた小山源五右衛門さんのことを安兵衛さんに報告しています。その内容は次のようなものです。
 「小山さんから結構な手紙が来ているということですが、私は納得できません。この男は内股膏薬ではないかと思っています。このごろの集会には出席せず不届の仁と思っています」  
史料

 「此男内マタ膏薬カト存候、此頃十四日ノ会ニモ十一日ノ会ニモ岡本ヨリハ不出来ノ了簡ニテ旁以不届ノ仁ト存候
参考資料
 『忠臣蔵第三巻』(赤穂市発行)

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