元禄15(1702)年1月26日発行(第125号)
安兵衛さんら、内蔵助さんに反論
長引くと脱盟者や自殺者が出る
討ち入りをリードする人には従う
岩屋寺(京都山科) | 岩屋寺(京都山科) |
1702年1月26日(東京本社発)安兵衛さんら、内蔵助さんに猛反論内蔵助さんの手紙(12月27日発信)を読んだ安兵衛さんと奥田兵太夫(孫太夫)さんは、大石内蔵助さんに返事を書きました。 その内容は次のようなものです。 「3月中なら上野介さんの所在は分かります」「大学さんの意向を聞いてから討ち入ったのでは、逆に大学さんに迷惑がかかるのではないでしょうか」 「今までとにかく討ち入りを見合わせてきたのは、ひとへに大学さんのことを思ってのことです。しかし上野介さんが隠居になって一方の始末がつき、討ち入りを見合わせる理由がない時節になったのに、大学さんにこだわっているのは納得がいきません」 「事を急ぐ必要なないというなら、その理由を詳しく皆に話すべきである。皆の心底が落ち着かないということでは誰も安心せず、相談も一致しません」「家督(義周さん)へばかりに鬱憤を晴らすというのなら何もいらだつことはありません。隠居(上野介さん)のことを第一に考えているからいらだつのです。 討ち入りもやむを得ないと考えている者は、世渡りも差し置いてこのことを第一としているので、差し当たっての生活に難儀している者もいます」(一儀難止存居候者ハ渡世ノ義差置此一義ヲ第一ト存候故、差当難義仕衆モ有之) 「養父弥兵衛さんとも一応相談しました。弥兵衛さんは『内蔵助さんから手紙が来たがそれほどの内容ではない』ということでした」 「あなた1人が決心をすれば家中の過半はその下知に従います。討ち入りを長引かすと色々な変化が出てくる。我々の命もいつまでももたない。決意されたらお供をしたいだけです」(永引申ニ付テ色々ノ変化出来) 「吉良親子に一度は鬱憤を晴らしたいということが骨髄にしみているから、誰でも早く復讐を計画をする人がいたらそれに従って、ついていくだけです」(早々存じ立てられ侯衆中これ有り侯はば、其の方に随身仕るべく覚悟にて罷り在り候) 焦りの背景
この手紙より高田郡兵衛さんの名前が抜けています。脱盟がオープンになったことを意味しています。安兵衛さんの心情を考えると耐えられなかったでしょう。 |
参考資料 『忠臣蔵第三巻』(赤穂市発行) |