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元禄15(1702)年2月3日発行(第130号)

忠臣蔵新聞

大高源五さん、安兵衛さんに報告
「内蔵助さんの大根は見届けた」

一周忌まで待つ(11月10日江戸会議)を確認
三周忌まで待つ(1月14日玄渓宅会議)を再確認
安兵衛さんが最も信頼している源五さんの変心

大高源五さんの「円相」 茶人大高源五さん
1月22日(京都支局発)

原惣右衛門さんは手紙で早期討ち入りを提案
「大学さんの閉門解除後は討ち入り不可能」

 既報のように、1月14日原惣右衛門さん(55歳)らは瑞光院参詣からの帰途、寺井玄渓さん宅で寄り合いをしました。しかし原さんらの期待した通りにならなかったので、原さんは内蔵助さんに手紙を書きました。それを大高源五さん(31歳)が山科の内蔵助さんに届けました。
 その手紙の内容は次の通りです。
 「大学さんの安否を見合わせるということは一理あるけれども、そうなれば大学さんが閉門を解かれた時、少しでも知行が与えられたら、上野介さん方に討ち入りが出来なくなります(「縦少ニテモ手付キ申タル道ハ先方取懸所存ヲ達候儀罷成間敷候」)。
 続いて「大学さんの安否は最早上野介さんの処分がこれ以上出ない事でもあるので、見切りをつけて討ち入ることだけに決め(「見切候テ宿意ヲ遂申一偏ニ被相極候」)、三月よりだんだん江戸に下り、万一上野介さんを米沢に引き取ると言われれば、途中で上野介さんを討ち取るべきであるということを話し合うべきである」と書いてありました。 

内蔵助さんの反論
「大学さんの安否を見届けても討ち入りは可能」

 これに対して内蔵助さんは皆で決めた結論を尊重することを説くと同時に、先を見越した自分の考えを大高源五さんに伝えました。
 「去年の冬、江戸で『ともかく殿さんの一周忌を待つ』と決めたんだ。上野介さんの隠居が幕府により承認されたことで、『待つことは最早これまでで、前後を顧みず討ち入りを』と言う者もいる。しかし大学さんの処分がいつまでもそのままということはない。閉門は大抵3年で御免となって
いる。来年三周期も過ぎ、浅野本家が無事広島に帰った後は最早見合わせる道理はない」
(「最早其上見合可被申道理無之候」)。
 次いで、惣右衛門さんへの反論を源五さんに話しました。
 「大学さんに少しでも知行が与えられれば、上野介さんに対して討ち入りを遂げられないという惣右衛門の言い分は納得できない。大学さんがいかほど高禄をもって取り立てられても、大学さんの面目が立つことにはならない。討ち入りをすることについては大学さんの安否を見届けることは何の邪魔にもならない。三周忌(来年の春)を過ぎて、幕府が何の沙汰もしなければ、誰がどのように言おうとも一日も見合わせることはない覚悟である(「御三年忌過候テ何ノ手筋モ見ヘ不申候ハヽ誰彼イカ様ノ相談ニ及候トテモ一日モ見合申間敷覚悟」)。 

理論派大高源五さん、再び変心
「何度も議論したが、内蔵助さんはテコでも動かない。
その決意はもっともである。内蔵助さんを引き離せない」

 源五さんは安兵衛さんらに、自分の内蔵助さんに対する心情を披露しました。
 「何度も何度も討ち入りについて言い争ったけれども、内蔵助さんの心は少しも動ずることはない。結局内蔵助さんの決意はここにも確かにあると感じた。当分こちらから内蔵助さんを引き離すということは出来ないと思う」(「畢竟ノ大根ハコヽニモ所存慥覚悟被相極候ニ疑無御坐候、依之当分此方引ハナレ候テ被申段モ難極罷在候」)
参考資料
『堀部武庸筆記』(赤穂市発行「忠臣蔵第三巻」)

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