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元禄15(1702)年2月11日発行(第131号)

忠臣蔵新聞

熱血漢安兵衛さんの感慨
「待ちにくきを待つのも勇である」

上方にいる者は全て内蔵助さんと同じ心底だ。
六〜七人で吉良邸に踏み込んでも
本望は達せられない。

堀部安兵衛さんの直筆 堀部安兵衛さん
内蔵助さん、焦る同志を説得
浅野家再興と吉良処分を確認してからでも
仇討ちは出来る、それが幕府との公約だ
1702年2月3日(東京本社発)
 2月3日付けの大高源五さんの手紙が堀部安兵衛さんの元に届きました。
 長老の原惣右衛門さんやクールで理論派の大高源五さんらが寄ってたかって押しても引いても、内蔵助さんの信念は不動でした。その上安兵衛さんが理論派として高く評価していた源五さんが「内蔵助さんにも大根の忠義」があると言い出す始末である。
 手紙の内容は以下の通りです。
 「木挽町(浅野内匠頭の弟大学)に対して少しでも石高が与えられ、浅野家が再興されると、吉良上野介への仇討ちが遂げられないと惣右衛門は言うが、私(内蔵助)はその考えには納得できない。…仇討ちを遂げることでは、木挽町の安否を見届けても、少しも邪魔にはならない。これが山科(大石内蔵助)の考えである」
 つまり、大石内蔵助さんは、「吉良への処分がなければ、浅野大学さんのお家が復興になっても、片落ちは解決したわけではない。浅野家再興と吉良処分を確認してから、仇討ちは出来る。その方が幕府の意向も分る」という従来の主張をしていることが分ります。
史料
 「自然其内木挽町へ御手当モ有之御出ノ時少ニテ御手アテ有之時ハ先方ヘノ趣意遂ラレヌ筈トノ惣右方被申様ニテ候得ハ、此段難心得被存候由ニ候、…宿意ヲ遂候所ニヲヒテハ御安否見届候程ニトテ少モ邪魔ニナリ可申道理無之ト被存候由、右ノ趣山科思召ニテ候」

上方にいる者は全て内蔵助さんと同じ心底だ。
六七人で吉良邸に踏み込んでも本望は達せられない。
恥と思わぬでもないが、一時の世渡りに心掛ける
1702年2月11日(東京本社発)
 安兵衛さんはこの日、「堀部武庸筆記」に次のような感想を書いています。
 「上方に居る者達は残らず内蔵助さんと同じ心底(「上方筋ニ罷在候面々不残内蔵助心底ト同然ニ相極候」)なので、こちらから思い定めた所存を言っても同意が得られない。然る上は六、七人ばかりで吉良屋敷に踏み込んでも本望を達することはむずかしい(六七人計存切屋敷へ踏込申共必定本望達候儀難計)。所存は捨てないが、待ちにくきを待ち、恥多き日々を待つのも勇気である」(「待ニクキ所ヲ待恥多シテ時節ヲ相待申モ勇義ニテモ可有之候」)
 「とりあえず日常の世渡りを心がけようと奥田兵左衛門と話し合った」

安兵衛さんを得心させた内蔵助さんの偉大さ
 正月には、内蔵助さんと手を切り、東西呼応して討ち入りを決意した安兵衛さんを、「待ちにくきを待ち、恥多き日々を待つ」心境にした内蔵助さんの偉大さがここでも認められるのである。
参考資料
『堀部武庸筆記』(赤穂市発行「忠臣蔵第三巻」)

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