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元禄15(1702)年2月16日発行(第133号)

忠臣蔵新聞

山科会議で自信を取り戻した内蔵助さん
「上方では約束を破る者は誰もいない」

安否後は死を以って下知に従う覚悟である。
「それよりも、群兵衛さんのことが心配である」と
安兵衛さんら急進派をチクリ

大石内蔵助さんの書状 大石内蔵助さん

内蔵助さんも存念を話す
「大学さんの閉門解除後、下向」

1702年2月16日(京都支局発)
 大石内蔵助さんは堀部安兵衛さんに手紙を書きました。
 「大学さんは見捨て難く、安兵衛さんらのようにすぐに討ち入りをすべきだと考えている者は上方には一人もいない(「只今事ヲ破リ可然ト存候 面々ハ無之候」

死後の噂をも存念に入れた
内蔵助さんの洞察力

 「今少し大学さんの安否を見届けず事を起こしては、死後、人の口にも面白く取り上げられるだろう。それが残念だ」(「今少見届不申只今中途ニ事ヲ仕候ヘテハ却テ死後ノ人口モ口ヲシキ儀」)


安兵衛さんを慎重にさせる手法
「安兵衛さんの心がかり
郡兵衛さんへの配慮を突く」

 「郡兵衛さんのことが心配である。言うまでもないが、相談が漏れないようにするのが専一である。飼い犬に手をかまれたという世間話ように…」

 あの手この手を使った内蔵助さんの心底をいつの間にか全員が了承していた。
 あの過激派のリーダーであった安兵衛さんですら、内蔵助さんを一統の指導者と認めて「内蔵助さんの決心する日」まで待つということになった。
 皆の意見を言わせるだけ言わせて、結論は内蔵助さんの考えていたことに落ち着く。決まれば、それに従わせるという手法は、民主主義の原理にほかならない。内蔵助さんを取材する内に、この時代において既に民主主義を体現している人物と考えるようになってきた。

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