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元禄15(1702)年3月2日発行(第134号)

忠臣蔵新聞

武林唯七さんが新たに登場
「上方のこと合点参らざること多し」

中国人を祖にもつ過激派の武林さん
同志大高さんを涙してののしる

武林さんの先祖の墓
(広島市西福寺)
武林唯七さん

武林さんは「吉田忠左衛門さんが下向しても
出合い御無用」と激越

1702年3月2日(大坂本社発)
 武林さんは緊急に記者会見を行いました。
 その席で「私は昨日大坂に着いて、大高さんに会い、上方の様子を聞きましたが、納得のいかないことばかりであった(「合点参らざる事多く御座候」)。それで私は堀部安兵衛さんに『吉田さんらが江戸に行って、あなた方に会おうとしているが、会う必要はない』(「御出会御無用と存じ侯」)と手紙を送ったところだ」と一気にまくしたてました。
 そこで、記者が「何が納得いかないのか」と尋ねると、
 武林さんは「軟弱な大石内蔵助さんに対して原惣右衛門さんや大高源五さんがついていながら、皆内蔵助さんの意見に同調したということだ」と吐き捨てるように言い、「これでは亡き殿もうかばれまい」と涙ぐんでいました。

武林さんの祖は中国人

 本社調査部の調べによると、「豊臣秀吉さんが朝鮮出兵の時、中国の明朝が朝鮮に援軍を出した。この時出兵した孟二寛さんが日本の捕虜となり、日本にやってきた。
 孟二寛さんはやがて日本に帰化し、その孫が武林さんという。

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