忠左衛門さんは
「上方全員の意向は内蔵助さんの存念に従うことだ」
安兵衛さんは
「上方一決の上は仕方がない、時節を待つ」と約束
1702年3月8日(東京本社発)
吉田忠左衛門さんは寺坂吉右衛門さんを連れて堀部安兵衛さん・奥田孫左衛門さんを訪ねました。
忠左衛門さんは「内蔵助さんの考えは『ずーっと大学さんの安否を見届けてから行動する』というもので、上方の者は皆この考え方に賛同しました。あなた方も納得して欲しい」と訴えました。
それに対して安兵衛さんは「吉良方に異変が起これば取り返しがつかなくなるが、上方の一同がそう決めたなら、仕方がない。その時を待つしかない」と答えました(「残念なる事に候得共上方一同一決の上は是非に及ばずと存じ候間…時節を相待ち申し侯」)。
忠左衛門さんは「上方と江戸が一致してよかった」と喜ぶ
口先の約束を信じず、安兵衛さんに念書を求める
急進派の筆頭である安兵衛さんが同意したので忠左衛門さんは「上方一同の決意を納得して頂きありがたい。これで上方・江戸双方が一致したということで、これほどうれしいことはありません」と非常に喜んびました。
と同時に、「あなた方が同意したという念書を書いて欲しい」とちゃっかりと要求しました(「此の段早々上方へ申し遣し度く侯間、各は同心これ有りとの一筆御越候」)。
忠左衛門さんのすごさを検証
播磨の加西から上洛した忠左衛門さんは内蔵助さんに「江戸に下って安兵衛さんらを説得するには、上方一同の決意が必要である」と提案する。
江戸下向後、上方の一同の決意の前にさすがの安兵衛さんも納得せざるを得ない。
それだけでなく、文書でその決意を確認する証拠主義を採用している。
指導者に求められるのは、忠左衛門さんの考えを現実化する洞察力である。内蔵助さんはつくずく素晴らしい腹心を持ったことを改めて実感しました。 |