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元禄15(1702)年7月22日発行(第145号)

忠臣蔵新聞

大学さんは浅野本家にお預け
浅野家再興成らず

内蔵助さんの最大のピンチを救う
残された公約破棄で討ち入りへ

浅野大学屋敷跡(今の歌舞伎座) 広島城(浅野本家の居城)

大学さん処分の事実経過


7月18日(東京本社発)
 本日、若年寄加藤越中守明英さんから浅野本家に書状が届きました。
 それには「浅野大学長広さん浅野左兵衛長武さん(旗本で長矩さんの従兄)同道で出頭するように」とありました。
 長広さんは長武さんと共に若年寄の加藤さんの屋敷に出頭しました。若年寄が居並ぶ中で、次のような処分を伝えられた。「大学さんは、内匠頭さんが生存中内匠頭さんの養子になっていた。内匠頭さんが幕府に対し不届な働きによって切腹させられた上は、そのまま差し置くことは出来ず閉門を命じていた。この度その閉門は差しゆるすが、知行の3000石は召し上げ、浅野本家(浅野綱長さん)の広島に引き取ってもらう」というものであった。
史料

 「大学事、亡内匠頭存命中、世嗣ぎに相成り居り候者にこれあり。内匠頭公儀に対し奉り、不届き相働き切腹仰せ付けられ候上は、其まま擱かれ難く、今般閉門差免され、知行召上げ候につき、安芸守本国へ引取り申すべし
 同じくこの日、浅野本家にも老中阿部豊後守正武さんから書状が届きました。
 それには「家来1人を出頭させるように」とありました。
 広島藩留守居明石吉大夫さんが老中の阿部さんの屋敷に出頭したところ、「長広さんの閉門解除と浅野本家お預け」「長広さんの妻子の引き取り」が伝達されました。
 同時に今回の処分は「広島藩に対して”厳しくこの旨を申し伝える”ということではない。この事情を藩主に伝えるようにと説明があった。」青字の項は赤穂市発行『忠臣蔵第三巻』より引用)というのである。
 長広さんは若年寄の加藤邸より浅野本家の留守居明石さんに伴われて、そのまま桜田門外の屋敷に移りました。その夜には妻子も木挽町から桜田屋敷に移りました。
7月22日(東京本社発)
 この日、長広さんの木挽町の屋敷が幕府によって召し上げられました。

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