元禄15(1702)年7月22日発行(第146号)
大学さん再処分の背景と意義
柳沢吉保さんの汚名挽回策か
将軍徳川綱吉さん | 柳沢吉保さん | 浅野内匠頭さん |
内匠頭さんは大学さんを義絶していた?『冷光君御伝記』(浅野長矩さんの伝記)によると、長矩さんは切腹する直前に検使役に「『存念に相叶わざるの儀これあり』、よって、この春大学さんを義絶した。これを幕府に届ける前に、この場になってしまった」と話したという。 義絶した者を再興運動の中心にすえることは、残された家臣が生き抜くために必要な方便であるという説は以前からあったが、大名の養子縁組が簡単に承認されたり、取り消したり出来ない性格のものだけに、大学さんに連座させたくないという心情から出た話でろう。 1年4ヶ月後の閉門解除・再処分の意味?老中の土屋政直さんから長矩さんの従弟戸田氏定さんに届いた書状(1701年3月15日、長矩さんの切腹の翌日)には「大学殿評定所に召され閉門仰せ渡され候。内匠様御弟に付き…」とある。 1702年7月18日に連座の罪である閉門は解除されました。だのに何故その上、知行を取上げ、浅野家の本家とはいえ、お預けという再処分を科したのでしょうか。 本人には関係ないところで浅野家再興運動が行われ、その中心人物にすえられた大学さんが幕府の意向を汲んで「その様な運動は止めよ。私にとっても、浅野本家にとっても迷惑である」と何故言わなかったか。だから幕府はその責任をとらせたという説も以前からありました。 吉良上野介さんの幕府管轄外への転居命令、浅野家浪士の行動の放任政策など、再興運動の抑圧という考えでは理解出来ない幕府の一連の動きがあります。 幕府の認識
|