元禄15(1702)年11月7日(第191号)
「浅野内匠家来口上」を協議
柳沢の儒臣細井広沢さんが添削
浅野内匠家来口上 |
11月7〜8日(東京本社発) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
内蔵助さんの討ち入り目的を検討 (1)「単なる仇討ちなら、手段を選ばす、目的を達するのみ」 (2)「幕府に公平な裁きを求めるには、その目的が重要だ」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
内蔵助番記者に大石内蔵助さんが討ち入りの目的を語りました。 「単なる敵討ちなら手段を選ばず、目的を達すればよい。しかし、これはあくまで公平な裁きを幕府に訴えるための手段です。そのために私たちの趣旨を幕府に伝わるようにしたい」と。 そこで討ち入りの口上書を検討しました。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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浅野内匠家来口上を検討(1) (1)「上野介殿に意趣があって避けがたい事があったのか、刃傷に及ぶ」 (2)「その結果、領地・赤穂城没収、家臣は恐縮しています」 (3)「ただ、留める方がいて、主君の本望は遂げられず」 (4)「主君の末期の心情を思うと、家臣として耐え忍び難い」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「浅野内匠家来の口上です。 伝奏ご馳走役の儀について、吉良上野介殿へ意趣を含みおられた所、殿中において当座(その場)で遁れ(避け)がたい儀がございましたのか、刃傷に及びました。 時節や場所をわきまえず、もっとも無調法(迷惑)だったことに付き、切腹を仰せ付けられ、領地赤穂城を召し上げられました儀については、私たち家来どもまで恐れ入っております。 上使の下知(命令)を請け、城地を差し上げ、家中の者どもは早速に離散致しました。 この喧嘩の時、ご同席していて、これを留める方がいて、上野介殿を討ち取ることができず、内匠頭の死に際の無念の心情は、家来どもとして耐え忍び難いことでございます」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
史料(1) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
浅野内匠家来口上 伝奏御馳走之儀付吉良上野介殿へ含意趣罷在候処、於 御殿中当座難遁儀御座候歟及刃場(傷)候、 不弁時節場所働無調法至極付切腹被 仰付領地赤穂城被 召上候儀家来共迄畏入奉存、 請 上使御下知城地指上家中早速離散仕候、 右喧嘩之節御同席御抑留之御方在之上野介殿討留不申内匠末期残念之心底家来共難忍仕合御座候、 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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浅野内匠家来口上を検討(2) (1)「高家の方にうっぷんを晴らすことには憚りがある」 (2)「しかし、”君父の讐は共に天をいただかず”という」 (3)「そこで、黙止できず、吉良家に討ち入った」 (4)「私たちの死後、この口上書を老中に見せてほしい」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
高家歴々に対して、浅野の家来ども、件(刃傷事件)のがうっぷんを晴らすということには憚りがありますが、”君父の讐は共に天をいただかず”と言うように、黙止(黙ってすてておく)ことは出来ないので、今日上野介殿のお宅へ推参いたしました。 ただひとへに亡主の意趣を継ぐ志だけでございます。私どもの死後、もし、お検分の方がござれば、お上に見せて頂くようお願いします。かくのごとくございます。以上」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
史料(2) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
対高家御歴々家来共件鬱憤候段憚奉存候得共、君父之讐共不可戴天之儀難黙止今日上野介殿御宅江推参仕候、 偏継亡主之意趣候志迄御座候、私共死後若御見分之御方御座候は奉願御披見如斯御座候、以上 浅野内匠頭長矩家来 元禄十五年極月日 大石内蔵助 (以下の人名は、史料(3)をご覧下さい) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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口上書までの経過 君父の讐で悩むも、細井広沢さんが助言 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
口上書が完成するまでに、色々とありました。 ここまでは順調に進みましたが、一番大切な目的のところで混乱しました。原案にあった「主君・父の讐とはこの世で共に暮らせない」(「君父の讐共に天を戴かざるの儀黙止がたく」)の一節です。 そこで念のために「礼記」(典礼)に当たってみましたが、「父の讐は共に天を戴かず」とあるのみで「君の讐」という文言はありませんでした。 その時、堀部安兵衛さんが細井広沢さんにその辺の事情を聞くことになりました。細井さんは以前「堀部武庸筆記」を預けられた最も信頼できる人です。細井さんは「大事をなすには文章によるべからず」、すなわち「大事な時には言葉などどうでもよいではないか」と答えたといいます。 そこで口上書が出来上がりました。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
この口上書を見て思うことは、まず「内蔵助らが本懐を遂げた後、泉岳寺で切腹しなかったのは死を惜しむ臆病者だからだ」という説を採用する書籍が最近でも多数発売されています。 しかし、これは史料を読まずに、状況のみで事実を推測する浅い視点と言わざるを得ません。史料を見れば、死を覚悟していることが明瞭です。 次に言えることは、幕府対する批判は一切ないことです。これは内蔵助さんのするどい作戦です。史料から分かるように、この口上書が幕府に渡るように工夫されています。討ち入り時だけでなく、引き上げ時にも同じ物を大目付仙石久尚さんにも届ける用意周到さです。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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浅野内匠家来口上に記された47人の名簿 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
史料(3) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
浅野内匠家来口上 (略) 浅野内匠長矩家来 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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出典
赤穂市発行『忠臣蔵第三巻』
「浅野内匠頭家来口上」(東京大学史料編纂所所蔵)