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元禄15(1702)年11月11日(第192a号)

忠臣蔵新聞

吉良邸絵図面を入手

新旧の吉良邸絵図面を入手
念入りな討ち入り配置図を作成

潮田又之丞さんが入手した吉良邸の絵図面(大石神社蔵)
 北側は塀を接して土屋主税邸・本多孫太郎邸。道路を隔てて町屋舗、
裏門の前の町家の西側に回向院などが描かれています。
絵図面による吉良邸付近の様子
@堀部安兵衛宅A杉野十平次宅B前原伊助宅C土屋邸D本多邸E鳥居邸F牧野邸
11月11日(東京本社)
 史料(1)の(1)の口語訳です。
 「昨日お話になった彼(吉良邸)の絵図面を、ようやく手に入れました。そこで(則)、お目に掛けます。ゆっくりと、ご覧下さい」
*解説1:潮田又之丞さんは、苦労して絵図面を手に入れたことが分ります。岡野金右衛門さんが恋人から「恋の絵図面盗り」したのではないことが分ります。
 史料(1)の(2)の口語訳です。
 「上野介殿屋敷の絵図を新旧2枚用意いたしました。この絵図面を使って、内々に相談しては、討ち入りの配置図を決定しました」
*解説2:波賀朝栄さんは、討入り後の大石主税さんらを世話した松平定直(伊予・松山藩主)家の家臣です。ここでは、主税さんら誰かが話すのを聞き書きしたものです。
 新旧2枚の吉良家の絵図面とは、前の住人である松平登之助信望(旗本)さんの絵図面と、吉良家になってからの絵図面と思われます。
史料(1)
(1)昨日御談ニ及申候、彼ノ絵図面、漸手ニいり申候間、則懸御目申候、緩々与御覧可被成候
 (潮田又之丞の大石無人宛書状)
(2)上野殿屋敷の絵図新古弐枚才覚致し、此図を以、内談仕候而、手組手配相定候
 (『波賀朝栄聞書』)

絵図面による吉良邸付近の様子
参考資料
 富森助右衛門さんが入手した吉良邸の図面によると、その大きさが分ります。
 土地面積は2550坪ですから、畳約5000枚を敷き詰めた広さです。
 家の建坪は846坪ですから、畳1692枚を敷き詰めた広さです。10畳の部屋が約170室です。
34間2尺8寸
西 34間4尺8寸
南北 73間3尺7寸
惣地坪数 2550坪
建家坪数 846坪 1合5勺
内本家 380坪 1合5勺
長屋 426坪
内27坪 鳥屋
9坪 腰掛
外ニ 拾弐坪とつなき腰掛共
塗籠 12坪半
同断 3坪
同断 4坪半
 飯尾精氏は、絵図面から、次のような吉良邸を描いています。
 「表門は東にあり、入って左に腰掛(供廻りの者の控え所)、それに続いて長屋16間半、右に門番所とそれに続く長屋13間、裏門は西側に画して北寄りにあり、南寄りに番所、長屋34間四尺、南側には長屋69間半(小屋敷28軒)がある。北側の西寄りには小屋数5軒分があり、それに並んで池があって橋がかかり、弁天橋とお稲荷さんの詞がある」(『実録忠臣蔵』)。

当時、本所松坂町はあったのでしょうか?
 ある読者から、本社に「当時、本所松坂町はあったのでしょうか」というお便りがありました。
 そこで、本社は、そのことを検証することにしました。
 まず、有名なのが「時は元禄15年12月14日!雪降る深夜に怒涛の一団!めざすは本所松坂町 吉良上野ノ介が首一つ!」という講談があります。ここでは絶対に、本所松坂町です。
 歴史的にはどうなのでしょうか。
 明暦3(1657)年1月18日、本郷にある本妙寺より火の手が上がり、江戸城や大名屋敷など江戸の大半が焼失する明暦の大火となりました。別名振袖火事と言われています。死者が10万人になった理由として、江戸幕府の治安対策があったとされています。つまり、幕府は、隅田川に架ける橋は千住大橋以外は認めなかったというのです。その結果、川向こうに逃げ場を求めることが出来ず、大量の焼死者が生まれたということです。
 万治2(1659)年、老中の酒井忠勝は、隅田川に「大橋」を造りました。隅田川の西が武蔵の国、隅田川の東が下総の国だったので、両国に架かる橋として、通称として「両国橋」と呼ばれました。
 貞享3(1685)年、南葛飾郡が武蔵の国に編入されるまでは、隅田川が武蔵の国と下総の国との国境でした。
 元禄6(1693)年、隅田川に新大橋が架けられると、「大橋」は正式に「両国橋」となりました。両国を含む北側が本所、両国よりも南側が深川といいます。
 また、大名や旗本屋敷がこの新興地に移転されるようになりました。
 元禄14(1701)年9月2日、吉良上野介さんが呉服橋から本所に移ってきました。
 元禄15(1702)年12月14日、浅野家の旧臣47人が吉良邸に討ち入りました。
 元禄16(1703)年2月4日、浅野家の旧臣46人が切腹しました。吉良上野介さんの跡取である義周さんが信州の諏訪に流罪となり、同時に屋敷も没収されました。幕府は、屋敷を取り壊して更地にし、この地を町人地としました。そして町名を本所松坂町としました。本所松坂町の誕生です。
*いつもお世話になっている百楽天さんによれば、「吉良屋敷跡全部が”本所松坂町”を冠するようになったのは、宝暦12年(1762)です」ということです。

史実は、どこまで復元できる?
 歴史的には、討ち入りしたとき、吉良邸は本所松坂町にはありませんでした。だから、その通称を使うべきでないという人もいます。
 本紙(記者)では、史実を復元した方がいいという考えは理解できますが、専門の学者や研究者を対象にしている訳ではないので、通称を採用しています。
 当時主義(出来るだけ当時のまま復元する)・当地主義(出来るだけその土地のままを復元する)を尊重することは大切です。しかし、完全に、史実を復元できるのかと言うと、かなり困難ではないでしょうか。ある程度の折り合いが必要だと思います。

刃傷事件は3月14日で意味がある
討ち入りは12月14日で意味がある
 例えば、年号です。
  1701(元禄14)年3月14日は1701年4月21日になります。
*解説1:勅使饗応は朝廷への幕府の朝賀使の答礼として3月に行われる儀式です。元禄14年(1701)1月11日、幕府は高家筆頭吉良上野介(61歳)を朝賀使(幕府年賀の使い)に任命しています。これを西暦に換算すると、2月18日にずれてしまって、朝賀の意味がありません。
 1702(元禄14)年12月14日は1703年1月30日になります。
*解説2:12月14日、「前日の残り雪を踏みしめて赤穂浪士は吉良邸に討ち入りする」といえば絵になります。なるほど、現在の12月の東京では、雪を見ることはありません。一番厳冬の1月30日の方が現実的です。吉良上野介さん家での茶会は1年を締めくくる意味での儀式なのです。1月30日の茶会では意味がありません。

生類憐みの令は、存在したか?
ただの「お触れ」「覚」「定」だった
 「生類憐みの令は、存在したか」と問われると、「当然」とお答えになるでしょう。しかし、史料としての呼称には存在しないのです。ただ単に「お触れ」「覚」「定」だったのです。
 史料(2)を見ると、「覚」とあります。何千という「覚」から、明治の学者たちは、通称として、史料の中の一部である「生類憐愍」を抜き取り、「生類憐愍の令」としました。しかし、憐愍が難しすぎるとして、俗称の「生類憐みの令」が誕生したのです。

史料(2)
 覚
 生類憐愍之儀、前々より被仰出候処、下々にて左様これ無く、頃日疵付候犬共度々これ有り、不届之至候、向後疵付候手負犬手筋極候て、脇より露顕致し候はゝ、一町之越度たるへし、并 辻番人之内匿置、あらはるゝにおゐては、相組中越度たるべしの事。
 戌(元禄7年)五月廿三日(『御當家令條』巷三三)

戦国の遺風と決別する法令は?
(1)「末期養子の禁」があります。これは「五十歳以上・以下、養子願之事」というお触れでした。
(2)「殉死の禁止」があります。これは「口達」というお触れでした。
(3)「牢人追放令」があります。これは「覚」というお触れでした。
*解説3:史実を復元することは、可能な限り努力すべきですが、そのために、歴史が分らなくなっては意味がありません。通称や俗称で、意味が通れば、それはそれでいいという立場です。但し、その場合、注記を補足として、明示する必要があります。
出典
赤穂市発行『忠臣蔵第三巻』

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