home back next

元禄15(1702)年11月29日(第193号)

忠臣蔵新聞

「南部坂雪の別れ」はフィクション

浅野南部坂下屋敷は幕府へ返上
阿久利さんは実家の赤坂今井町へ引越し
内蔵助さん「手紙での挨拶も控えた」

南部坂雪の別れ(TV映画より) 南部坂下屋敷

瑶泉院さんは実家の赤坂に引越ししていた

元禄14年(1701)3月15日
 午前4時阿久利さん(28歳)は浅野鉄砲洲上屋敷から実家の三次藩浅野土佐守長澄さん(長治さんの孫。阿久利さんの甥)の麻布赤坂今井町の下屋敷に移りました。

元禄14年(1701)3月17日
 無事鉄砲洲上屋敷を幕府を引き渡しました。

元禄14年(1701)3月22日
 無事赤坂南部坂下屋敷を幕府に引き渡しました。

討ち入り前の内蔵助さん
状況を考えて手紙も出さなかったと心情を吐露

元禄15(1702)年11月29日

 大石内蔵助さんは浅野家の公金を決算し、落合与左衛門さん(内匠頭未亡人瑶泉院さんの用人)を通じて瑶泉院さんに「預置候金銀請払帳」(城明け渡し後の6月4日に預かった公金の使途記録)として提出しました。
 この時、内蔵助さんは、「大学さんが広島本家に引き取られたからは、状況を考えて手紙も出しませんでした」と書いています。

史料原文

 「一筆啓上致し侯、瑶泉院様倍御機嫌能御座ならるべきと恐悦に奉り侯、大学様御事、芸州へ御引取成られるの儀御座侯得共、御気毒思召なされるべく恐察に奉り候。近頃是非に及ばずの次第に御座侯、其の後は態指控、書状を以て御機嫌相伺申さず候、貴様弥御無事御勤成らるべきと珍重に存じ奉り侯」

内蔵助さんは、九郎兵衛さんに差し押さえ荷物を返していた
本当に不忠者にこんなことをするでしょうか?
 瑶泉院さんに会ったとされる日に、内蔵助さんは、瑶泉院さんの用人である落合与左衛門さんに会って、
九郎兵衛さんのことを喋っています。
 「大野九郎兵衛の道具については、去年の冬にお話しましたとおり、大学様へ申し上げ、大学様の返事を待っておりました所、もはや伺い申すべき時期もありません。その上、赤穂の殿様が新しく着任するよう仰せつけられましたので、そのまま差し置くこともならないので、代官手代より内意を受けており、幸い、九郎兵衛は困窮しているといい、差し押さえた道具については、ツテをもって望み願って来たので、願の通り返すということにしました。その詳細は書き付け、これもまたお渡しいたします。
 11月29日 大石内蔵助
  落合与左衛門様」
 というものです。
史料原文
一 大野九郎兵衛道具之儀、去冬御物語之通大学様へ申上御意次第ニ可仕と存候処、最早相伺可申  時節無御座候、其上赤穂御城主被 仰付候故其侭差置候儀難成様子ニ御代官手代より内意承候ニ付、幸九郎兵衛困窮申右道具之儀手寄を以所望願申ニ付、則願之通差遣埓明候、右様子委細書付取集  是又進之候
  十一月廿九日        大石内蔵助(花押)
    落合与左衛門様 
         人々御中

出典
赤穂市発行『忠臣蔵第三巻』

index home back next