元禄15(1702)年12月13日(第194号)
内蔵助さんの遺書
「若年寄も御存知…忠死を感心」
「なんの滞りこれなく」
大石内蔵助さんより花岳寺・正福寺・神護寺に宛てた手紙 |
12月13日(東京本社発) 討ち入りを14日と決定した大石内蔵助さんは赤穂の花岳寺の恵光師、正福寺の良雪師、神護寺に宛てて手紙を書いています。日付は13日ですから、遺書という性格を持っています。 若年寄も見て見ぬふりか、安堵している 「東下りの関所においても無事であり、心配していたことも無く下向できました。他の同志も追々に江戸に入り、私も江戸に入りました。これについては噂も色々あるようです。若年寄もご存じの様に思いますが、何のおかまいもありません。吉良邸を打ち破ることは特別で、その通りにさせておこうとしていると推察しています。私たちが亡君のための忠義の死と感じたのでしょうか、何の障害もなく、安堵しています」 死後、各寺へ届けるよう依頼 追伸として 「この書状は家来に持って行かそうと思いましたが、若し道中で障害にあってはと思い、私の死後大津より皆さんに届けるよう頼んでおきました」と書いています。 偽作では?という説もある 内蔵助さんのこの書状は出来すぎています。わざわざ「関所も障害なく通過できた」とか、「若年寄も知っているのに知らない振りをしている」とか、その理由に「忠義の死」であるとか、討ち入りが成功していないのに「安堵している」とか、書いてあり、非常に不自然な心情吐露となっています。 ただ、「幕府があるいは本当にそんな態度をとったのかもしれない」、そう思わせるだけの背景が江戸の雰囲気にはありました。 「道中御関所無滞少も心懸り之義無之下着仕候・・浪人共追々下着、拙者も罷下り候さた色々在之、若老中ニも御存知之旨ニ候得共何之御いろいも無之うち破り候上は各別其通ニ被成置候事と被察候、亡君之ため忠死ヲ感し道理か何之滞少も無之、致案(安)堵罷有候・・ 十二月十三日 大石内蔵助(花押) (花岳寺)恵光様 (正福寺)良雪様 神護寺様 参 尚々此書状家来ニ可進と存候得共若道中滞候てハ如何と存さしひかへ死後大津より其元へ相達し候様ニ頼置申候」 |
この忠臣蔵新聞は史料を忠実に現代によみがえらせるというのが目的です。今回私は意訳し過ぎて、若老中を老中と表現しましたが、趣旨からすると「若年寄」が正しいと考え、ご指摘のように老中を若年寄と訂正しました。 佐藤さんには以前にもお世話になりました。 |
出典
赤穂市発行『忠臣蔵第三巻』