home back next

元禄15(1702)年12月14日(第195号)

忠臣蔵新聞

内蔵助さん、二つの情報により
「14日討ち入り」と決定

この経過が分るのも
寺坂吉右衛門さんの記録のおかげ

上(吉右衛門さんの花押)



左(吉右衛門さんの木像)
12月14日(東京本社発)

二つの重要情報とは
羽倉斎・大石三平ルートと山田宗匠・大高源吾ルート


 寺坂吉右衛門さんに討入り日時決定のいきさつを聞きました。
 「12月14日の昼時以前より依頼していた大石三平さんが「吉良上野介さんが今日帰宅された」という情報を羽倉斎さんから聞いて、早速大石内蔵助さんに報告しました」(「極月十四日之昼時、兼而申合い候大石三平より、上野介殿御事今日帰宅成られ候由聞付、早速告来候」)。
 羽倉さんから聞いてきた情報というのは「尚々彼方の儀は、14日の様にちらと承り候」というものです。
 羽倉斎さんとは、既に紹介しました(news181にリンク)が、吉良家出入りの国学の先生です。
 「そこへ大高源吾さんもあのお師匠さんから聞きだして帰ってこられました」(「然る所江大高源五も彼師匠方にて聞出し帰えられ候」)
 あのお師匠さんとは、既に紹介しました(news190にリンク)が、吉良家出入りのお茶の先生です。
『寺坂信行自記』)とある。
 
この重要情報により
12月14日討入りと決定
 内蔵助さんにも確認すると、「茶会の日もこれで決まった。12月5日に茶会があるというので討入りを考えていましたが、将軍が柳沢吉保殿屋敷をお成りと聞き、延期していました。14日に茶会があるというので、討入りをすることに決定しました」(「会日ヲも自然と承候、先日(五日)これ在り候へ共 御成日故遠慮致し、今日(14日)これ在るに付き明日打込申事ニ候」)(寺井玄渓宛て大石内蔵助の12月14日付け書状
今も昔も同じ
情報を制するものが勝つ

 山田宗匠さんと羽倉斎さんの重要な情報により、内蔵助さんは15日早朝の討入りを決定しました。やはり当時も今も情報を制する者が勝利者となることを証明しています。
寺坂吉右衛門さんの役割
後世の生き証人

 吉右衛門さんについては、討ち入り後の役割について議論が対立しています。色々ありますが、生き残って後世の人のために「生き証人」となるというのが、一番説得力があります。討入り前後の重要な情報がたくさんありますが、吉右衛門さんの情報は討入り当事者という特別な意味があります。

出典
赤穂市発行『忠臣蔵第三巻』

index home back next