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元禄15(1702)年12月14日(第195a号)

忠臣蔵新聞

四十七士の個人情報(座席順)
20石5人扶持とは?
5両3人扶持とは?

12月14日(東京本社発)
討入りに参加した47士の
年齢・石高・役職などの個人情報
 よく言われていることですが、討入りに参加した47士の石高を調べると、軽輩の者が多いということです。
 実際に調査した情報を以下のようにまとめました。
  氏名 実名 年齢 家 禄 役 職(親 族 関 係)
01 大石内蔵助 良雄 44歳 1500石 国家老
02 大石主税 良金 15歳 部屋住み 大石内蔵助嫡子
03 吉田忠左衛門 兼亮 63歳 200石 足軽頭・郡代
04 磯貝十郎左衛門 正久 24歳 150石 物頭・側用人
05 原 惣右衛門 元辰 55歳 300石 足軽頭
06 堀部弥兵衛 金丸 76歳 隠居 元江戸留守居役(もと300石取り)・隠居料50石
07 片岡源五右衛門 高房 36歳 350石 側用人・児小姓頭
08 近松勘六 行重 33歳 250石 馬廻
09 間瀬久太夫 正明 82歳 200石 目付
10 富森助右衛門 正困 33歳 200石 馬廻・御使番
11 小野寺十内 秀和 60歳 150石 京都留守居役
12 潮田又之丞 高教 34歳 200石 絵図奉行・郡奉行
13 堀部安兵衛 武庸 33歳 200石 馬廻・御使番(堀部弥兵衛婿)
14 赤埴源蔵 重賢 34歳 200石 馬廻
15 奥田孫太夫 重盛 56歳 150石 武具奉行・江戸定府
16 矢田五郎右衛門 助武 28歳 150石 馬廻・江戸定府
17 岡島八十右衛門 常樹 37歳 20石5人扶持 札座勘定奉行(原惣右衛門実弟)
18 早水藤左衛門 満尭 39歳 150石 馬廻
19 間 喜兵衛 光延 68歳 100石 勝手方吟味役
20 中村勘助 正辰 46歳 100石 書物役
21 菅谷半之丞 政利 43歳 100石 馬廻・代官
22 不破数右衛門 正種 33歳 浪人 元馬廻・浜奉行・もと100石取り
23 千馬三郎兵衛 光忠 50歳 100石 馬廻・宗門改
24 大石瀬左衛門 信清 26歳 150石 馬廻(大石内蔵助はとこ)
25 木村岡右衛門 貞行 45歳 150石 馬廻・絵図奉行
26 岡野金右衛門 包秀 23歳 部屋住み 亡父岡野金右衛門包住は物頭・200石取り
27 吉田澤右衛門 兼定 28歳 13両3人扶持 蔵奉行(吉田忠左衛門嫡子)
28 貝賀弥左衛門 友信 53歳 10両5人扶持 蔵奉行(吉田忠左衛門実弟)
29 大高源五 忠雄 31歳 20石5人扶持 膳番元方・腰物方・金奉行(小野寺幸右衛門実兄)
30 武林唯七 隆重 31歳 15両3人扶持 馬廻
31 倉橋伝助 武幸 33歳 20石5人扶持 中小姓・扶持奉行
32 村松喜兵衛 秀直 61歳 20石5人扶持 扶持奉行・江戸定府
33 杉野十平次 次房 27歳 8両3人扶持 札座横目
34 勝田新左衛門 武尭 23歳 15石3人扶持 札座横目
35 前原伊助 宗房 39歳 10石3人扶持 中小姓・金奉行
36 間瀬孫九郎 正辰 22歳 部屋住み 間瀬久太夫嫡子
37 小野寺幸右衛門 秀富 27歳 部屋住み 小野寺十内養子
38 間 十次郎 光興 25歳 部屋住み 間 喜兵衛長男
39 間 新六 光風 23歳 部屋住み 間 喜兵衛次男
40 奥田貞右衛門 行高 25歳 9石3人扶持 加東郡勘定方(近松勘六の異母弟、奥田孫太夫の婿)
41 矢頭右衛門七 教兼 17歳 部屋住み 亡父矢頭長助教照は勘定方・20石5人扶持
42 村松三太夫 高直 26歳 部屋住み 村松喜兵衛嫡子
43 神崎与五郎 則休 37歳 5両3人扶持 徒目付(役料5石)・郡目付
44 茅野和助 常成 36歳 5両3人扶持 横目
45 横川勘平 宗利 36歳 5両3人扶持 徒目付(役料5石)
46 三村次郎左衛門 包常 36歳 7石2人扶持 酒奉行・台所役
47 寺坂吉右衛門 信行 39歳 5石2人扶持 吉田忠左衛門組足軽
*年齢は討ち入り時(『江赤見聞記』巻四より。討入書置書付の署名順)
大高源吾・倉橋伝助の20石5人扶持とは?
武林唯七の5両3人扶持とは?
 大石内蔵助は、1500石の国家老とはよく知られている事実です。
 しかし、大高源五や倉橋伝助が20石5人扶持、武林唯七が15両3人扶持ということはあまり知られていません。
 ましてや、20石5人扶持や15両3人扶持がどれだかの石高になるのか、今の貨幣価値にしてどれくらいになるかを知っている人は、あまりいません。
 そこで、義士研究家で、その辺の事情に詳しい人に取材しました。

 まず、石で受取っている武士と両でで受取っている武士の違いを聞きました。
 「石(高)」は、大名から与えられた知行地の漁を示す単位です。
 20石の場合、四公六民で換算すると、20/40%=8石が給料(収入)ということになります。
 「扶持」は、知行地を持たない格式の武士に与えられる給料(収入)です。
 1人扶持とは、大人1人の食費を1日5合として、5合×1年間(365日)=1石8斗2升5合という計算になります。
 3人扶持の場合、1人扶持(1石8斗2升55合)×3人扶持=5石4斗7升5合となります。

 元禄10(1697)年、森蘭丸をを祖とする津山藩森家が無嗣改易されました。
 その結果、浪人となった茅野和助・横川勘平・神崎与五郎らは、赤穂浅野家に召し抱えられました。給料は、3人とも、5両3人扶持でした。
 つまり、浅野内匠頭は、まず給料のみを与えておき、後の働きをみて、知行地を与える考えだっらのでしょう。
 しかし、赤穂浅野藩の改易で、その予定が「おジャン」となってしまいました。
 宝永3(1706)年、津山森藩の支藩・西江原森長直は、赤穂に入りました。森長直は、津山森家の2代藩主森長継の後継ということで、赤穂森家が宗家筋となりました。
 歴史には不思議な縁があるものですね。

金1両 米1石         20万円
米1石 10斗 100升 1000合 20万円
1人扶持 米1石8斗2升5合 約36万円

(1)大石内蔵助は、1500石です。今のお金に換算して、1500×40%×20万円=7500万円です。月収にして625万円です。裕福です。
(2)大高源五や倉橋伝助は、20石5人扶持です。20石×40%×20万円(160万円)+5人扶持×36万円(180万円)=340万円です。月収にして28万3000です。
(3)武林唯七は、15両3人扶持です。1両(20万円)×15=300万円+3人扶持(3×36万円=108万円)=408万円です。月収にして34万円です。
(4)茅野和助・横川勘平・神崎与五郎は、5両3人扶持です。1両(20万円)×3=60万円+3人扶持(3×36万円=108万円)=168万円です。月収にして14万円です。これでは家族の生計が心配です。

 江戸時代の家計を現代の家計に換算することは、封建主義社会と資本主義社会の基本的な違いを無視した計算なので、あまり意味がないと思います。
 大まかに、類推するという程度に理解して下さい。

出典
赤穂市発行『忠臣蔵第三巻』
「忠臣蔵のことが面白いほどわかる本」(山本博文)

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