home back next

元禄15(1702)年12月14日(第196号)

忠臣蔵新聞

「47士がそば屋に集結」
これはフィクションと吉右衛門さん

赤穂浪士潜伏先江戸藩邸組下向組) 赤穂浪士47人がそば屋に集結?
@安兵衛・武林・杉野岡野・勝田・木村・倉橋・横川  A前原神崎  B弥兵衛
C大石親と子・潮田・近松・早水・菅谷・三村・大石瀬・小野寺十 D奥田親と子
E富森・間親と兄と弟吉田親と子・間瀬親と子・寺坂・原・千馬・中村・岡島・小野寺幸・不破
F大高・片岡・貝賀・矢頭  G赤埴・矢田  H村松三磯貝・茅野  I村松喜
12月14日(東京本社発)(東京本社発)

大石三平さんと大高源吾さんから重要情報
12月14日討入り決定とその準備

 寺坂吉右衛門さんからの続報です。
 「吉良上野介が14日の茶会の準備にかかっているということを聞いて、討入りが果たせると皆が喜び、そして早速討入りの用意に私たちもかかりました。(「支度ニ帰えられ候由ニ告候ニ付、大幸之儀と何もなゝめならす歓候て、早速と用意致され候」)(『寺坂信行自記』)

上方に行くと言っては宿賃を払い
気取られないように、暇乞い
 その後の情報も吉右衛門さんから聞きました。
 「それぞれは明日上方へ行くと言って、宿賃を支払い、気取られないように冷静に暇乞いをしました。自分の荷物は手早く片付けました。夕暮れ時、宿を出るときの装束はそれぞれが自分のを着ていました。」

吉田忠左衛門さんら堀部弥兵衛さん宅で祝盃
その後47人が安兵衛さんら三軒に入る
 「忠左衛門さんら米沢町の弥兵衛さんの借宅に立ち寄りました。そこでしばらくの間、討入りの門出の祝儀として盃などを酌み交わしまして、賑やかだった。
 それより思い思いに本所林町の堀部安兵衛さん、徳右衛門町の杉野十平次さん、相生町の前原伊助さん三軒の家に別れて入りました」(『寺坂信行自記』)

茶屋の亀田屋に行って
そば切りを食べたのは、忠左衛門さんら8〜9人
 「討入り前にそば屋に集合してそばを食べ、47士が気勢を挙げた」ということについて、吉右衛門さんはそのことをきっぱりと否定して、次のように話してくれました。
 「忠左衛門さん、息子さんの沢右衛門さん、そのほかの6〜7人で両国橋の向かいの川岸町にある亀田屋という茶屋に立ち寄って、そば切りなどを注文し、討入りまでの時間をゆっくりと休息しました(「忠左衛門・沢右衛門其外六、七人ハ両国橋向川岸町亀田屋と申茶屋に立寄申候そは切なと申付、緩々と休息」)。(『寺坂信行自記』) 

午前2時の鐘を合図に
全員が合流
 「12月15日の午前2時の鐘を合図に林町の安兵衛さん宅に行き、大石内蔵助さん親子と討入り装束で身を固めました。その後相生町の前原伊助さん宅にいる赤穂浪士に声をかけ、全員がここに合流することが出来ました」(「八ツ前安兵衛宅江参、内蔵助父子一所に装束致し候」)(『寺坂信行自記』)

出典
赤穂市発行『忠臣蔵第三巻』

index home back next