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元禄15(1702)年12月15日(第197号)

忠臣蔵新聞

「討入りルート」を検証
辻番をどう通った?

討入りルートは浪士以外の史料がない?
引き上げルートは浪士以外の史料はある

一般的に言われている討入りルート 安兵衛宅より900mの吉良邸(NHKTVより)
12月15日(東京本社発)

討入りルートを検証(1)
杉野・安兵衛さん宅から前原さん宅へ合流
その間約900m、誰も気がつかなかったか?

 12月15日の午前2時の鐘を合図に林町の安兵衛さん宅に行き、大石内蔵助さん親子と討入り装束で身を固めました。その後相生町の前原伊助さん宅にいる赤穂浪士に声をかけ、全員がここに合流することが出来ました」

史料原文

「八ツ前安兵衛宅江参、内蔵助父子一所に装束致し候」(寺坂信行自記)

討入りルートを検証(2)
吉良邸までは提灯や松明がいらないほど明るかった
吉良邸の辻で東西へ23人づつ二手に分かる
辻番・木戸はその時、何をしていたか?

 午前4時過ぎ、全員が吉良邸に討ち入りました。その間の距離は12・3丁あったが、昨日降った雪の上に暁の霜が凍っていて足元がよくわかり、世間を憚るために提灯や松明をともさなくても、有明の月がさえていて道を間違うこともありませんでした。吉良邸の辻までやってきました。ここから東西へ23人づつ二手に分かれ、私たちは屋根より乗り込みました。親子が同じ門から入らぬ方針なので、私は西(裏門)、息子の幸右衛門は東(表門)へ向かいました

史料原文

「七ツ過に打立て敵の方へ押寄候、其間の道十二三丁も有所にて候、きのふふりたる雪の上に暁の霜置氷りて足もとも能火のあかり世間をはゝかりて挑灯も松明もともさねとも有明の月さえて道まかふへくもなくて、敵の屋敷の辻迄押詰爰より東西へ廿三人ツヽ二手にわかれて取かけ屋根より乗込申候、親子一方ヘハ向ハぬ事にて我等ハ西へ懸り幸右衛門ハ東へむかひ候」(元禄一六年二月三日付小野寺十内の妻たん宛て書状)

江戸の危機管理体制はどうなっていた?
辻番6人は不寝番
木戸は夜10時には閉門

 千田嘉博氏や伊藤好一氏の『江戸の町かど』などによると、辻番は寛永6(1629)年に幕府の要請で武家屋敷に設置されました。幕府が設置した公儀辻番、大名が設置した一手持ち辻番、大名と旗本が共同設置した組合辻番がありました。20歳以上60歳以下の健康な者が選ばれました。昼は4人です。夜の6人は交代で不寝番勤務をし、2時間ごとに担当地域の見回りしていました。
 木戸は幕府の命令で町ごとに設置された仕切りで、主に夜間の通行を制限しました。夜10時には木戸を閉めました。10時以降木戸を通る時は理由を述べて、脇の潜り戸を通してもらいました。この時木戸の番人は次の木戸まで同行したといいます。

憶測の根拠薄弱
船で行っても辻番は通る
木戸を脅して通っても辻番は通る

 そこから様々な憶測が生まれました。
 @船で行った。しかし、船で行っても上陸して吉良邸前の辻番には会う。
 A木戸番はおどすと知らぬ振りをして通してくれた。しかし、吉良邸前の辻番には会う。
 そして討入りルートの史料で、赤穂浪士以外の史料が見当たらない。引き上げ史料に関しては、浪士以外の見聞史料は存在している。その説明にはなっていない。

内蔵助さんの花岳寺など宛て手紙
「若老中ニも御存知乃旨」と関係か
この項に詳細は忠臣蔵新聞194号を参照


 「若老中ニも御存知之旨ニ候得共何之御いろいも無之うち破り候上は各別其通ニ被成置候事と被察候、亡君之ため忠死ヲ感し道理か何之滞少も無之、致案(安)堵罷有候・・
 十二月十三日        大石内蔵助(花押)
   (花岳寺)恵光様

出典
赤穂市発行『忠臣蔵第三巻』

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