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元禄15(1702)年12月14日(第199号)

忠臣蔵新聞

邸内突入部隊19人を検証
表門より9人、裏門より10人

討入り成功の背景ー多寡より精神力の差
赤穂浪士2人で吉良家臣3人に当たる
リストラ武士 対 サラリーマン武士



裏門組から
10人が屋敷
内に突入
表門組から
 9人が屋敷
内に突入
12月14日(東京本社発)
屋敷内の突入部隊を検証
19人の平均年齢は32歳
 表門組から屋敷内に突入した浪士は勝田新左衛門(23歳)・吉田沢右衛門(23歳)・小野寺幸右衛門
(27歳)・矢田五郎右衛門(28歳)・武林唯七(31歳)・富森助右衛門(33歳)・片岡源五右衛門(36歳)・岡島八十右衛門(37歳)・奥田孫太夫(56歳)の9人です。
 裏門組から屋敷内に突入した浪士は磯貝十郎左衛門(24歳)・大石瀬左衛門(26歳)・村松三太夫(26歳)・杉野十平次(27歳)・堀部安兵衛(33歳)・倉橋伝助(33歳)・赤埴源蔵(34歳)・三村次郎左衛門(36歳)・寺坂吉右衛門(39歳)・菅谷半之丞(43歳)の10人です。
 合計19人の平均年齢は32歳で、浪士の精鋭部隊です。 
 討ち入り2ヶ月前の10月14日の手配り書には、毛利小平太は、裏門組で屋敷内に突入することになっていました。つまり、表門組屋敷内突入組みは10人で、表門組屋敷内突入組みも10人で、都合20人の最強部隊でした。所が、毛利小平太が直前で脱盟したので、表門組の三村次郎左衛門が急遽裏門組に編成替えになりました。その結果、上にあるように、表門組が9人、裏門組10人、計19人となりました。
吉良家臣30人 対 浪士19人
圧倒的多数に勝てるか?
人数より大切な精神力
 過去たくさんの書物や映画・TVなどが討入りの状況を様々な角度から描写してきました。浪士側が「周到な用意をしていた」とか、「寝入りばなを突いた」とか、「安兵衛のように剣の達人がいた」とか言われてきました。
 筆者は中学・高校時代に運動部に所属し、就職後はクラブ指導をしてきました。ある年のことです。地域最強のチームで構成しているリーグの大会ありました。しかし、レギュラー9人のうち4人(キャプテンを含む)が語学留学で欠ける事態になりました。全員揃っていても戦力は互角のチームです。
 平常ではとても勝ち目はありません。選手の中にもあきらめムードがただよい、力のない練習が続きました。そこで、私は指導者として「このままの状態では相手チームに失礼だから、今大会は棄権する」と過激な発言をし、練習場から引き上げました。翌日チームの代表がやってきて、「是非大会に参加したい」と申し入れました。私は「そのためには、勝つための練習ができるか?」と確認すると「はい。やります」と言う。バラバラであきらめムードのチームがこの時より変身しました。
 その日の練習から「勝つための練習」が始まりました。相手の4チームには「レギュラーが4人も抜けてとても試合にはならない」と盛んに宣伝をしました。
 試合は私の予想通り、強敵を次々と倒して準優勝を果たしました。しかし、レギュラーチームが帰って来て、試合をしても結果は散々でした。レギュラー4人を抜いて、準優勝のメンバーでしても勝てませんでした。あの危機的状況を再度人工的には作れなかったのです。
危機的な状況を脱する精神力は人工的には不可能
現実的に危機的な状況にある浪士
人工的に危機的な状況を作ろうとする吉良家臣
 危機的な状況を脱するために全員が歯をくいしばって必死に耐えた、あの時と同じ精神力を人工的に醸し出すということは非常に困難であるということです。
 次々と脱落する同志がいました。自害した同志もいました。経済的に困窮して盗みを働き、逐電した同志もいました。疑心暗鬼が蔓延していきました。権力側の中枢にいた吉良を討てるのか不安がひろがりました。しかし、彼らは「身を捨て家を失くしてまでやろうとしたこと」を主君に代わって成し遂げようとして、危機的・破滅的な状況を克服してきた精神力は想像を超えます。艱難辛苦を乗り越えてきた、一匹狼的な浪士を納得させ、一定の方向に導く指導者の資質も重要なのは当然です。
 逆に「赤穂浪士が襲ってくる」「それにどう対応するか」を様々に想像するが、それは人工的であり、非現実的である。元禄太平の世になれたサラリーマン武士には無理な注文といえる。

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