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元禄15(1702)年12月14日(第201号)

忠臣蔵新聞

討入名場面”山鹿流陣太鼓”
これはフィクション

読者の質問に答えます
@「人々心得覚」では討ち入り道具には太鼓なし
A吉良討ち取りは笛・引き上げは鉦

毎年12月14日の義士祭(赤穂市) TV映画より
12月14日(東京本社発)

内蔵助さんの集合・討入り・引揚げ計画(「人々心得覚」)を分析
上野介さん・義周さん父子を討ち取ったら笛
鉦を合図に引揚げる
 討入り日が決定すると全員は3ヶ所に集合する(「定日相究侯はゞ兼而定候通、総勢内々之三ケ所へ集り申すべき事」)。
 予定の時間に討ち入る(「兼而定侯刻限に打立つべき事」)。
 上野介の首をはねたら、上野介の上着をはいで包み、亡主の墓所泉岳寺へ持参する。
 ここで幕府の邪魔が入った場合の対応策もきめ細かく決めている。
 上野介・義周父子の首を打った場合は笛を順々に吹く(「父子打済侯而相図は笛を吹、順々に吹次申すべき事」)。
 鉦の合図で全員が引揚げる(「鉦之相図は総人数引取侯節、打申すべき事」)。
 引き取る場は無縁寺(回向院)とする。ここで幕府より邪魔が入った時の対応策も書いています。
 上杉から追っ手が来た場合は、勝負することまで記しています。
 討入りも必死なら、退去も必死であるとの覚悟まで示しています。 

討入り道具を調査(「寺坂信行筆記」)
吉良父子討ち取りの笛は「ちゃらめるの小笛」
引揚げの鉦は「どら」様か?
 『実証義士銘々伝』を見ると、赤穂浪士が討入りに準備した道具が分かります。
 槍12筋、長刀2振、野太刀2振、弓4張半弓2、まさかり2挺、かけ矢6挺、竹梯子4挺大小、玄のう2挺、大鋸2挺、銕てこ2挺、木てこ2丁、鉄槌2丁、かすがひ60本、かなづち2丁、取鈎長細引付16筋、玉松明人数だけ、ちゃらめるの小笛人数だけ、かんとう掛燈1、どら1、水溜大張籠2
 「ちゃらめるの小笛人数だけ」と「どら1」が「人々心得覚」と表現がやや異なります。そこで『実証義士銘々伝』の「浅野長矩伝附録」を見ると、「ちゃめり笛人数だけ」「鉦1」とあります。「心得覚」に出てくる吉良父子討ち取ったときに吹く笛は「ちゃらめるの笛」で、引揚げの時に鳴らす鉦は「ドラ」様のものということが分かるます。

山鹿流陣太鼓はどうして誕生したか?
赤穂藩と山鹿素行さんの関係
「大義の討入り」の象徴として音を出させる
  承応元(1652)年12月から万治3(1660)年9月まで赤穂浅野藩祖の浅野長直さんが千石で当代一の大学者山鹿素行さんを江戸藩邸に招聘しました。承応2(1653)年9月から7ヶ月間赤穂に滞在し、赤穂城の縄張りに貢献しました。
 寛文6(1666)年11月から延宝3(1675)年6月まで赤穂に流罪となりました。大石内蔵助さんの8歳から18歳までの間、素行さん内蔵助さんの大叔父頼母助良重さんの屋敷に居ました。
 そんな関係で1681(天和元)年11月に素行さん(60歳)は赤穂藩主の浅野長矩(15歳)に押太鼓を貸しています。
 1683(天和3)年3月に長矩さん(17歳)は勅使饗応役を大役を果たました。この時世話をしたのが大石頼母助良重さん(65歳)で、指南役は吉良上野介義央さん(43歳)でした。
 まったくの出鱈目でなく、こうした背景があって、静かな討ち入りでは様にならない。そこで、「大義ある討入り」を象徴させようと、音の出る「陣太鼓」と、幕府に反逆した軍学者山鹿素行さんとが結合したのではないだろうか。

参考資料
『忠臣蔵第三巻』(赤穂市発行)
飯尾 精『実証義士銘々伝』(大石神社)

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