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元禄15(1702)年12月12日(第202号)

忠臣蔵新聞

赤埴源蔵の”徳利の別れ”
これは事実?

読者の質問に答えます
@「親類書」では源蔵さんに兄嫁はいない
A「伝右衛門さん記録」では上戸・下戸でない
B「波賀覚書」は親類書と伝右衛門さん記録と一致
赤埴源蔵(大石神社) TV映画より
12月12日(東京本社発)

赤埴源蔵さんの徳利の別れのストーリ
これは本当なの?
  討入の決った十二月十四日は雪が降っていましたが、源蔵さんは日頃世話になった兄夫婦に最後の別れをしようと思って、塩山家を訪ねました。しかし、兄の伊左衛門さんは留守で、兄嫁はまた酒の無心だろうと、仮病をつかって会いませんでした。
 そこで源蔵さんは借りた兄の羽織を相手に水盃を交わしたといいます。
 その翌朝、赤穂浪士が吉良邸に討入ったという噂に、兄の伊左衛門さんは女中に「源蔵がいるかどうか」を確認に行かせました。
 討ち入りの仲間に源蔵さんがいることを知った兄の伊左衛門さんとその兄嫁は十分なもてなしも出来なかったことを悔やんだといいます。
 この話は忠臣蔵の映画・TV・講談には欠かせません。これは事実なのでしょうか。

切腹前に書いた親類書で確認
別れをした、兄も兄嫁も存在しない
 源蔵さんが元禄16(1703)年1月に書いた親類書は次のようになっています。
 「父 浪人にて江戸に罷在候 赤埴一閑
  母 江戸に罷在候
  弟 土屋相模守様に罷在候 本間安兵衛
  妹 阿部対馬守様に罷在候 田村縫右衛門妻
  甥 本間友太郎 本間安兵衛伜五歳」
 これを見ると、兄はいない。嫁にあたるのは弟本間安兵衛さんであるが、妻の記録はない。多くの書では妹が兄嫁にあたり、妹婿の田村縫右衛門さんが実の兄のことであろうと推測しています。
 この史料から徳利の別れはフィクションであろうとしています。

源蔵さんを世話した堀内伝右衛門さんの記録
源蔵さんは上戸でもなく下戸でもない
 討ち入り後、源蔵さんらは細川藩に預けられました。この時親身に世話をしたのが、伝右衛門さんです。切腹の2日前の記録は次のようになっています。
 「二月二日の夜五半時比上の間…内蔵助・惣右衛門・十郎左衛門三人…酒呑居被申候、忠左衛門・久大夫・十内・弥兵衛ハ下戸にて甘ミそれを猪口ニて呑居被申候」
 これを見ると、大石内蔵助さん・原惣右衛門さん・磯貝十郎左衛門さんの三人は上戸で、吉田忠左衛門さん・間瀬久太夫さん・小野寺十内さん・堀部弥兵衛さんの四人は下戸であるとなっています。残り十人は中戸(こんな言葉はない)ということになる。
 この史料から源蔵さんは大酒のみではなかったということで、徳利の別れをフィクションとする人が多いです。
主税さんら10人を世話した松平藩の記録『波賀朝栄聞書』
「徳利の別れ」のルーツはこの記録か
 波賀朝栄さんは松平隠岐守定直さんの家臣です。松平藩では主税さんら10人の世話をしています。この間の記録が『波賀朝栄聞書』です。それは次のようになっています。
 「老公曰、赤垣源蔵儀、十二月十二日に妹婿(田村縫右衛門)」が阿部対馬守様に仕えていました。「暇乞の下心にて、いつよりも衣類等改め…参候処」、妹婿の親が主君の仇も討たないものが立派な服装をしていると意見する。源蔵さんが「一両日中に…本庄筋へ罷越候得者、又いつか逢申さんと存、罷越候」と答えたので、妹婿の縫右衛門さんは「然れハ酒一ツ参り御帰り候」と誘う。源蔵さんは「成程給申すべし」と返事すると、縫右衛門さんは「いつも酒者参らすか、今日はまいり候よ」(いつもは酒を飲まないのに、今日は酒を飲むもんだなー)と言って、妹らとも「むつましく物語致罷戻」っていった。
 三日後の夜、本望を遂げました。それを知った妹や妹婿の親も「面目なさよ」と「なけき悲しみて、あわれなり」と。
 この史料を見ると、親類書の内容と一致するし、伝右衛門さんの記録とも一致する。徳利ほどの劇的な別れはなかったが、「別れ」はあったのではないだろうか。

参考資料
『忠臣蔵第三巻』(赤穂市発行)
『赤穂義士史料上巻』(雄山閣)
飯尾 精『実録忠臣蔵』(神戸新聞総合出版センター)
その他

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