元禄15(1702)年12月12日(第203号)
大高源五さんと宝井其角さん
両国橋の出会はフィクション?
読者の質問に答えます @其角さんはほら吹き名人? A14日深夜、討ち入りを目撃するの怪 B15日深夜、大目付の甥邸で4大名お預けを知るの怪 |
大高源五像(大石神社) | 両国橋で出会う源五さん(左)と其角さん(大石神社の絵馬より) |
12月13日(東京本社発)
これはフィクション?
十二月十三日は年の暮れの煤払いの日になっていました。源五さんは煤竹売りに変装して吉
良邸の様子を探っていました。その帰りに両国橋に来た時、其角さんと出会いました。 源五さんは本心をさとられないように知らぬ振りをして通り過ぎようとしました。しかし、気がついた 其角さんはあまりの身なりに哀れを感じて、「年の瀬や 水の流れと 人の身は」と詠むと、源五さん は「あしたまたるる その宝船」と返歌しました。 其角さんはその歌から源五さんの再就職が決まったんだろうと推測しましたが、はっと気がつきま した。待ちに待った討ち入りを暗示していることに…。 別な話では討ち入り後初めて源五さんの真意を知ったというのもあります。 これも忠臣蔵の映画・TV・講談には欠かせませない、じーんとくる話です。 これは事実なのでしょうか。 14日深夜、吉良邸の隣家で討ち入りを目撃するの怪 折から雪が面白く降り出し…庭中の松は雪をかぶって風情がありました(去る十四日…折から雪 面白降出し)。 …午前3時頃、激しく玄関をたたく者がいるので、玄関に案内をすると、『私たちは浅野家の浪人 堀部弥兵衛と大高源五で、亡君の遺恨を果たすため、大石内蔵助をはじめ47人が吉良邸の門前 にいます。武士の情け、万一吉良方に加勢なさると末代までの不覚となりましょう』と言って、吉良家 に入って行きました。そこで私は『我ものと 思えば軽し 笠の雪』と高々と詠んで応援しました(丑み つ頃…けはしく門をたゝき、両人玄関に案内し…大石内蔵助初四十七人門前に打彳(あいたた ずみ)…我ものとおもへばかろし笠の雪)。 無事本懐を遂げたと大石主税と大高源五が穏便に謝辞を言ってきた。『日の恩や たちまち砕く 厚氷』と言った源五の気持ちが脳裏から離れません」(佐竹藩士梅津半左衛門文鱗宛て) 既に飯尾精氏が『忠臣蔵の真相』で指摘されているように、13日に雪が降ったが14日は降って いません。討ち入りは午前4〜5時で、午前3時ではありません。隣家の本多家には吉良家の庭か ら挨拶をしており、討ち入り直前の慌しい時に挨拶に行けないだろうし、午前3時に玄関に案内す るのも不自然です。『我ものと…』の句も前出の飯尾氏は元禄4年の作と指摘しています。 この史料からみてほら吹き其角さんと言われても仕方がありません。 其角さんの書状(12月20日付け)を見る 15日深夜、大目付の甥宅で4大名家にお預けの首尾を聞くの怪 らのお預けが決まったと聞いたので帰りました」(拙者十五日…暮方より仙石右近殿へ参上シ又伯 耆守殿甥故深夜迄右近殿ニ罷在御預之首尾をとくと承罷帰候)(あて先は同じ梅津文鱗さん) 「隠れ阪神」が浮上、最近のタイガーズ現象に類似 きも男も女も感激で涙を流し、湯水や酒食を渡そうと道々にあふれ、その状態は言葉では表現で きません」(見物山のことく誉声甚老若男女感涙之余湯水酒食を捧申候而道々馳走言語ニ つくしかたく候)。 最近どこにいってもプロ野球の阪神の話題で持ちきりです。阪神の「ハ」の字も言ったことがない 人が、にわか阪神フアンになって、盛んに野球談義をしてビールを美味しそうに飲んでいる。2位と の差がありすぎて、セリーグ全体では興ざめの今年のペナントレースですが、阪神フアンには「巨 人ファンの気持ちがやっとわかった」という人が多い。他のチームはどうでもいい。贔屓のチームが 勝ち続ければ、毎日楽しく酒が飲めるというのです。 文学者其角さんにも、阪神ファンの血が流れているのでしょうか。 台いろは書始』で源五さんと其角さんの出会が登場し、明治の『松浦の太鼓』という舞台で「あした 待たるるその宝船」という話が付け加えられました。この項は祖田浩一氏の『なぞ解き忠臣蔵』を参 考にしました。 |
参考資料
『忠臣蔵第三巻』(赤穂市発行)
飯尾 精『忠臣蔵の真相』(新人物往来社)
祖田浩一『なぞ解き忠臣蔵』(東京堂出版)